アメリカの
CONFUSION INTERNATIONAL SKATEBOARD MAGAZINE
にPMAを主催しARETH CREWでもありますJAHI氏が
日本人のライダーを紹介しております。
下はその日本語訳です。
CHECKしてみてください!!
ジャパニーズスケートシーン
日本語訳 たなかけんじ(AREth)
日本の代理店や企業には属さない、いちスケートボーダーの繋がりでの紹介である。
これが日本のローカルスケートボードシーンの全てではないが、少しでも日本を感じてもらえれば幸いです。
1
たなか だいすけ
東京
八十年代後期から滑り続け、そのスケートボードの経験を生かし写真家として絵師として独自の世界を表現するスケートボーダーである。
2
しょうご てらにし
金沢
農業をしながら滑るスケートボーダーしょうご。ノリの自宅兼ギャラリーに貼られていた数枚のポスターサイズの写真の中にあったしょうごのテールスライドに熱い生き様を感じた。
3
くろだ かずゆき
東京
湘南にて日本古来の藍染を表現するリトマスの一員でもあるスケートボーダーのクロ。藍をさわりコンクリートもさわる数少ないスケートボーダーである。
4
ひぐちげんき
新潟
新潟のローカルスケートボーダー達の手で塗り作られたDIYスケートパークzion。こういったローカルスケートボーダー達が自分たちの居場所をすこしづつ自らの手で良くしていく事が、スケートボードシーンでは大切な事の一つであると思う。
photo CANBIN
5
おおむら しげる
京都
彼は間違いなく日本のスケートボードシーンに貢献してきたスケートボーダーである。交通事故にあい第二級障がい者になるが現在はスケートボードに乗るまでに復活する。彼みたいなスケートボーダーが日本のスケートボードの世界で仕事が与えられないのは、日本のスケートボードに関わる代理店や企業の社長達の多くがスケートボーダーではないからであろう。
6
やました はるき
徳島
彼と始めてセッションした時の衝撃は忘れない。
ズボンとパンツが破れお尻と背中が傷だらけでもメイクするまでトライするスケートボーダーである。
徳島には、彼やMrBlackやローカルスケーター達が署名活動し、コースデザインされたパブリックではありえない独創的な阿南スケートパークもある。
7
やまもと ようじろう
福岡
彼はPFKのParkやスケートスポットを仲間達と建設しビールを飲み、スケートセッションを楽しみビールを飲む。
ようするに最高に美味いビールを愛するpure fun keepな
スケートボーダーなのである。
8
ワタナベ ミズト
東京
クリエイトを愛する彼はカメラマン、映像作家、そして日本では数少ないスケートボードカンパニー、DREAM 1000やPeaceculturenetwork、SKATE IZMのオーガナイザーとして仲間達をサポートし続ける。
オリジナルシーンを支えるスケートボーダーである。
9
よこお しき
新潟
石材屋の彼は自分の家に自らと仲間達でスケートプールを生み出した。
極上プールコーピングも全て自ら石を削り生み出す、オールラウンドスケートボーダーである。
アウトロ
日本は2011年に起こった原発事故から海に放射能を流しつづけ、全く解決しないまま原発を世界に売ろうとしている。そしてその行為を行なう政治家を選ぶ選挙にも半分ぐらいの人しか投票にいかない状態なのである。
経済がなくてもスケートボードはできるが、地球に人が住めなくなればスケートボードができなくなる。
日本のスケーターやアーティストがどんな動きや表現やメッセージで、日本を変えていくのかを世界中の人々は間違いなく見てると俺は思ってる。 |