小学校低学年のころから、ずっと野球をしていた。なぜ野球に興味をもったのかは覚えてないのだが、気がついたら地域の野球クラブに入っていた。学校が休みの日はもちろん、平日も学校が早く終わる日なんかはグラウンドを借りて練習していたから、いま思うと割と熱心なチームだったかもしれない。たまにズル休みなんかはしたが、僕もそれなりに熱心に野球にのめり込んでいた。幼きころの僕の夢は「甲子園に出る」こと。いまでも、甲子園の試合をTVで目にすると、目頭が熱くなる。ただ、僕は甲子園には出たことがない。それもそのはず、僕はかなり早い段階で甲子園に出る夢を諦めてしまった。というよりは野球に興味がなくなってしまったのだ。あれほど野球のことばかり考えていたのに。尊敬する野球選手は、西武のデストラーデだったのに。
僕が入学した中学校には野球部がなかった。僕は中学校でも本気で野球をするつもりだったので、小学校の時にとてもお世話になった監督に、別の地域の野球チームを紹介してもらっていた。「これからも野球ができる」そう意気込んでいた。がしかし、人生そんなに甘くはない。僕はそのチームの実力についていけなかった。それまでずっとピッチャー・4番をつとめており、自分では地域の中ではそれなりにレベルの高い方だと思っていたが、それはまったくの思い違いだったようだ。試合に出ることはおろか、練習ですらまともにこなすことができない。レベルが違いすぎる…。
僕の野球熱は一気に冷めてしまった。しかもその頃「野球なんかどうでもいい」と思えるものに出会ってしまった。そう、スケートボードに。スケートボードには以前から興味があったのだが、たまたま中学校の先輩が道端でスケートボードをしていて、そのまま先輩のスケボーを借りパクしてしまった。最初は何気なく遊んでいただけだったのだが、次第にバランスがとれるようになって、いろいろ板を蹴ってみたりしていたら、僕の身体に衝撃が走った(なんか板が横に半回転したぞ。なんだこの感覚。しかも今の確実になんかしらの技だろ)。当時は技の名前を知らなかったが、奇跡的にノーリーショービットが乗れてしまったのだ。もうそこからは、どっぷりスケート中毒。学校が終わるや否や、すぐに帰宅し近くの公園でスケートするようになった。そのころはまだ野球を続けていたが、僕の頭はもう完全にスケートボード1色になってしまっていた。秋葉原にも通うようになり、家に帰ればスケートビデオを見まくる生活。「もう野球はやめよう」そう決心したが、問題がひとつあった。「小学校の時にずっとお世話してくれていた監督に申し訳ない」という気持ちが僕の心を締めつけていた。僕が中学でも野球をすることにとても喜んでくれ、ずっと親身になってくれた監督。きっと悲しむだろう。それなりの理由がないと納得はしてくれないはず。ただ単に「野球に興味がなくなりました」だけでは納得はしてくれない。そんな思いがあり、しばらくは野球をやめられないでいた。とはいっても、気持ちは完全にスケートボード。あいかわらず秋葉原に通う生活を続けていた。
その日もひとりで秋葉原に滑りに行っていた。そのころには僕もかなり上達していて、Bsヒールフリップがたまに乗れるくらいになっていた。そんな僕を見て、ひとりのスケーターが声をかけてくれた。「キミまだ中学生くらいでしょ? うまいね。遊びでやってるんだけど、もしよかったらうちらのチーム入ろうよ」。スケーターの仲間があまりいなかった僕は、話かけてくれただけでかなりテンション上がったが、それ以上に「チーム」という言葉に胸が高なった。
これだ!!! 僕はその晩、監督に電話し「野球をやめる」と告げた。「東京の有名なスケートボードチームにスカウトされました」と、もっともらしくなおかつ超ギリギリ嘘にならないくらいの理由にアレンジして。監督はこう言った。「オレにはなんのことだかまったくわからないが、そのスケートボードとやらは、中途半端に終わるなよ」。
あの日から、10数年経った。当時は野球をやめられたことでテンション上がり、監督の言葉はピンとこなかったが、今となってはすごく心に響く。監督はあの時、僕にこう伝えたかったのだと思う。「野球じゃなくてもいい。ただ、若いうちから何でもいいから熱く打ち込み、続けられるものをもっておけ」。 僕は今でもたまに、あの時の監督の言葉を思い出し、こう思うことがある。
「スケボーだけは、中途半端に終わらせられないな」と。
DESHI
旅とドトールと読書をこよなく愛する吟遊詩人。 “我以外はすべて師匠なり”が座右の銘。