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日本スケート黎明期のスポット事情
──第16回:公園遊具

2021.03.29

 1985年頃、世界中で広まりつつあったストリートスケートの波に乗って自分はスケートボードを始めました。家から一歩出れば楽しむことのできるストリートは魅力的で、夢中になった自分は海外の雑誌やビデオを中心にスケートボードに関する情報はどんな些細なことでも得ようと必死でした。アメリカやオーストラリアではスケートパークやランプ以外にもバックヤードプールのようなスケートボード用に作られていないトランジションを滑る文化があるということを知りました。さらに排水のために建設された巨大なパイプやディッチ、レザボア(貯水池)などのR面やバンクを行ったり来たりできる、ラインを描けるスケートスポットが存在することも知りました。それにより憧れはトランジションを滑るスケートボーディングへと向かうようになりました。当時スケートパークは希少な存在で、都内に住む自分がアクセス可能だったのはムサシスポーツセンター(※通称・清瀬)くらいでしたが、残念ながらスケートボードを始めたばかりの自分には清瀬の敷居はいろんな意味で高く、憧れのパークは一度も滑りに行かないままクローズしてしまいます。DIYも今のように浸透していなかったので、日常的にトランジションを滑る機会はありませんでした。

 無い物に対する憧れが強くなるにつれ、「海外に存在する夢のようなスケートスポットは日本には存在しないのか?」と思うようになりました。当時スケートスポットは自分の足で探すか口コミ情報を頼りにする以外方法はありません。ところがある日、入手した日本のスケートボード専門誌MOVIN’ ONで公園内に設置されていると思われる、すり鉢状の滑り台の写真を見つけました。ランプもろくに滑ったことがなく、ましてやコンクリートのボウルなんてそのまた夢のような存在だったので、その写真の中の滑り台に釘付けになりました。その日から自分は行ったことのない公園に行くと必ず遊具や敷地内をチェックしました。その頃、渋谷に存在した美竹公園はまるでスケートパークのような作りでまさに夢のスケートスポット。遊具やオブジェはR面の付いたものばかりで、その公園にも両面がR状になった滑り台がありスケートした経験もありました。記憶は定かではありませんが、渋谷の滑り台はRの角度やR面に鉄製の遊具が設置されており、ラインを描くことが非常に難しく、自分がMOVIN’ ONの記事で見た滑り台とは少し異なる物だったと記憶しています。その後、知人からの情報でラインを描いて滑ることができる滑り台が都内にも存在することを知ります。

 最近になって、ディッチバンクやバックヤードプールを滑る海外のシーンに対して日本では公園遊具を滑り、その経験をトランジションスケートに持ち込むという流れがあったことに気が付きました。これは全国各地に存在していて正確な時期は不明ですが、主に'70年代中盤から'80年代後半くらい。すり鉢状と呼ぶかポテトチップス型と呼ぶか、コンクリートを用いて作られた滑り台をスケートしていたシーンです。滑り台などの遊具は表面がスムースでスケートボードに適していました。当時の佐官職人の技術があったからこそ特殊な形をしたコンクリート製の公園遊具が存在したので、恐らくこれは職人気質の日本独自の物だという見解に至りました。

 MOVIN' ONの編集を手掛けていた石原氏に貴重な話を聞く機会に恵まれました。氏の話は内容が濃く、日本の公園遊具を滑る文化の核心に迫ることができたのでそのときに聞いた話をご紹介します。

 

温故知新(以下O): 当時はどのようにして公園遊具の存在を知ったんですか?

石原 繁(以下I): 地域差があると思うけど、防波堤、まあ河川だよね(港か川か)。あと遊具、それと公共の建物、大丸の看板(東京駅の八重洲口に存在したR付きの壁)、これは大丸の看板が付く前からあったし、あと八丁堀にも大丸みたいなのが昔あったんだって。何かの会社の玄関先にあるモニュメントなんじゃない? ああいうデザインされたもの。タイルでRを作るって結構あるじゃない? 高級マンションとかさ、デパート系とか? 八丁堀のは結構Rがデカかったらしいよ。カツくん(Be'-In Works カツ秋山社長)とかは滑ってる。私は滑っていない。昔は新宿に花園公園ていうのがあって、そこに船堀のと同じ位デカいもの(滑り台)があった。しかも当時新宿のそこら辺には人が住んでなかったから、別に昼間スケボーしても全然怒られなかった。船堀の8割くらいの大きさ。新宿御苑の駅からプッシュで行ってた。

O: あの時代に遊具を発見するのはかなり難しかったんじゃないですか?

I: '70年代だとサーフショップがスケボーを取り扱っていた。スケートショップはないから。そうするとサーフショップの先輩たちは車を持ってるワケよ、サーファーだから。どこかに波乗り行ったとか、職人さんとかでどこかに販路があって納品しに行ったりとかで知ってるとか。「あれ滑れるんじゃね?」みたいな。スケボーパークがオープンする前は公園しかないからそういう情報は多かった。それが根底にあると思うから。河川、防波堤、大田区で言ったら羽田があるから防波堤のところでアキ(秋山)とか滑ってたんだ。あと鶴見川とかも幅が広いバンクがあった。基本そういうところで滑ってるのはサーファーだった。なぜかっていうと港に向かって下って、川があって、右か左にバンクがあって。結局片面じゃん、それってサーファーの発想じゃない? 上から降りる、ターンする。それがさっき言ってた遊具と大きな違いだよね。遊具はどっちからも入れて。

O: 当時遊具でどのような滑り方をしてましたか?

I: できるだけ高い方の上から入って、低い方の下をカービングでやり過ごして、ハンドプラントとか秋山兄弟はしてたよ。カツくんとかアンドレクトしてたよ。ミラーフリップとかもしてたよ。美竹公園のブランコのところRになってたじゃない? あそこでカツくんフロントのインバートしてたよ。プライウッドになる前。何人かは本当に凄かったよ。やっぱ情報がないから、当時アメリカの雑誌を見た人と見てない人の差は凄かった。
 美竹公園で滑ってたとき、夜スケボーしてて、あそこって横にいいマンションがあるじゃない? 多分2階の人が凄くうるさいから警察を呼んでたんだと思うの。結構時間帯を選んで滑ってたんだけど、食事の時間とか結構平気じゃない? あとご飯の支度してる時間帯も平気で、夜遅いのはアウトじゃない? で、夜スケボーしてたときに70歳位のおじいさんと結構若い秘書っぽい人のセットがブランコこいでて、何か変だったから無視してスケボーしてて。そしたら声をかけられて、何かその人は都市開発の設計をやった人だったみたいで、ここの公園も私がやったんだって言ってて。戦後都市開発をするときに東京は地価が上がったからドーナツ化現象で郊外に人が住むようになって、町が都市の機能だけでは良くないから憩いの場としての公園を23区にある程度の規模作ることの開発をやってた人だっていうの。チーフみたいな人で設計をした人らしくて。「ここは公園の滑り台として作ったひとつなんだけど、こうやって夜もキミたちみたいな子供たちが遊んでるのが見れて、自分は昼の設定として公園を作ったけれど、夜も二次利用されてて凄く嬉しい!」と言われて、名刺をもらった。自分たちは近所迷惑だから人を呼ばれるとばかり思ってたから(笑)。その名刺がないんだよね。名刺に書いてあった住所は美竹のすぐ近所だったんだけど。その人の話だと、公園のキャッチャーミット型の滑り台とかタコの形したコンクリート製の遊具とかをたくさん作った人みたいなんだよね。公園の滑り台にはステンレス製のものはつまらないんじゃないかって言うの。子供の開発能力は広いから限定的に作るんじゃなく多角的に作るものが遊び場だって提案した人だと思うのね。もちろん本人も言ってたし。

 

 調べたところ1956年に制定された「都市公園法」という法案が出てきました。これは「都市公園の設置と管理に関する基準などを定めて、都市公園の健全な発達をはかり、公共の福祉の増進に資すことを目的とする」法律だそうです。その中で児童公園に「ブランコ」「砂場」「すべり台」の設置が義務付けられていました。そのためこれらの遊具は多くの公園に設けられ、「公園の三種の神器」と呼ばれるようになったそうです。元々雨が多く湿度の高い日本では木製遊具は腐食しやすいため、野ざらし状態でも耐久性が期待できるコンクリート製遊具が作られていました。現在は安全性から素材をコンクリートや鉄から樹脂、プラスチックを組み合わせたものに変更して加工や管理のしやすい耐久性の高い遊具に変化してきています。

 時代の変化とともに登場し消えていった公園遊具の謎が30年以上の時を経て解けました。元々公園遊具はスケートボード用ではないし、スケートパークがたくさんある現代にわざわざ滑ろうとは思う人も少ないかもしれません。スケートボードはルールがなく自由なもの。街の中の地形やオブジェクトを使ってどうスケートボードできるかを想像したり工夫することがスケートの醍醐味です。もちろんスケートパークでも自由な発想の基にスケートを楽しむこともできますが、あえて今、スケートボード用ではない場所やものを滑ることに価値を感じるようになりました。滑るための発想や工夫をする行為、滑ることができたときの充実感がスケートボードの本質の一部だと感じます。最近はスケートパークが増えて滑る場所には困らなくなりました。どこも創意工夫が素晴らしく楽しい限りなのですが、逆に街中でスケートボード禁止の表示を見ることも増えました。当然、器物損壊や騒音で近隣の住民や通行人に迷惑を掛けるべきではないと思います。しかし人の往来も激しくない場所に禁止サインを掲げたり、スケートボードに乗っているだけで「危ない」という理由で注意し、スケートボードから降りるよう要請したり、少し行き過ぎた対応をする行政に納得ができないことも増えました。極端に言えばスケートボードをする場所を与えたのだからその中から出てくるなと言わんばかりの風潮には同意できません。スケートボードは自由なものです。自分はこれからも他人に迷惑を掛けないように注意し、社会と共存できるよう努力しながら自由にスケートボードを楽しみたいと思っています。

 

石原氏の話にも登場した通称・船堀。現在は滑走困難になってしまった都内に現存する公園遊具。

 

石原氏が編集を務めた雑誌、MOVIN’ ON 1985 Vol. 1 No. 3 ('85年当時刊行されていた専門誌としてはZine以外ではただ1誌だと認識しています)。

 

現在も大阪に存在する、すり鉢状の滑り台を'80年代前半にローカルスポットとしていたスケーターたちがいました。Skate Punk、Skate Rockという言葉もなかった頃、大阪・日本を代表するハードコアパンクバンドのZouoやOutoのメンバーはまさにそれを体現していました。日本のスケートパンクカルチャーのオリジネーターたちを特集したPOSSESSED SHOE発行の独立自由型のコラムページ。

 

写真では伝わりにくいので公園遊具の魅力を動画でどうぞ。

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