'80年代、アメリカンハードコアパンクシーンとスケートボードシーンが…
──第9回:SKATE ROCK 2
'80年代、アメリカンハードコアパンクシーンとスケートボードシーンが融合したSkate Punk / Skate Rockのスタイルが世界中に飛び火して広がりました。
自分が'80年代中盤に出会ったアメリカンハードコアパンクは、それまで聴いていたイギリスのハードコアパンクとサウンドやファッションの形態があまりにも違っていてびっくりしたのを覚えています。それまで、自分はスタッズを打ったライダースジャケットに破れたデニムパンツなどといったスタイルで、バンドのライブに通う日々を送っていました。ところがアメリカンハードコアパンクは、パンクにタブーとされるポップな音楽要素を取り入れ、Tシャツにショーツやネルシャツを腰に巻くスタイルでステージに立ったり、スケートボードを片手にライブに行ったりしていました。最初は頭の中でスケートボードとハードコアパンクがまったく繋がりませんでしたが、その自由気ままなスタイルにすぐに夢中になりました。当時、音源はもちろん、ハードコアなスケートブランドのデッキやTシャツを手に入れること自体困難でしたし、ハードコアパンクが好きで掘り下げているスケーターも残念ながら自分の周りにはあまりいないと思っていました。
最近になって分かったことですが、実際は自分が知らなかっただけで、当時は日本でもスケートボードとハードコアパンクは密接な関係にありました。自分は東京在住だったので情報を入手する術がなく、他の都市の情報がほぼ皆無でした。わずかな情報源は、国内でリリースされるアナログのジャケットやZine(当時はミニコミと呼ばれていました)に掲載された写真や記事、または仲間からの口コミでした。それにより、国内を代表するバンドのメンバーにスケートボードをする人たちがいることは知っていましたが、ここ最近になって、交遊関係のあるスケーターからの情報、そしてさまざまなインタビューや記事から、彼らがかなり本格的にスケートボードをしていたことを知り感動したので、今回このコラムを書かせていただきました。
当時の自分が外見やイメージだけで物事を判断していた部分が非常に大きかったことを、今改めて思い知らされています。
'80年代中盤に自分が凄く好きで聴いていた大阪のハードコアバンドで、ZouoやOutoというバンドがいました。海外バンドのロゴやマークがペイントされたライダースや髪型もモホークや長髪が決まっていて、一見スケートボードをするようには見えませんでした。メンバー全員がそうではなかったと思いますが、実際には全国の公園に点在していたコンクリート製のすり鉢状やランプ形状になった遊具でかなり滑っていたらしく、彼らがスケートパークが少なかった時代に滑る場所に飢えたスケートラットだったのだと思うと、当時の熱気を感じずにはいられません。
自分がスケートボードを始めて間もない頃、後楽園内球場横(後楽園球場がまだ存在した時代)でスケートボードのコンテストが開催されることを聞きつけ観に行きました。コンテストは園内にあったフジツボ状のバンクのまわりで行われていました。ある出場者の番になると、Bad Brains(メンバー全員が黒人で今も活動しているハードコアバンド)の曲を流し、特にトリックをせずにコースをただひたすらグルグル回り続ける……という光景を目撃して、いろんな意味で衝撃を受けたのでした。後にこの人は、現在グラフィックデザイナーとして活躍するSkate Thing氏であることを知りました。また、これ以前に自分は彼を、日本のパンクシーンを取り上げた1985年リリースの宝島社のオムニバスカセットブック『The Punx』でかなり気合いが入ったパンクスタイルのスナップを見たことがあったので、インパクトが一層強烈でした。
'80年代後半に自分もバンドで活動していた時期があり、メンバーもベーシストのTakeshi(Rocky & The Sweden / Fuudobrain)以外は、みんな少なからずスケートボードに興味があったことを知っていましたし、一緒に滑ったりもしていました。Takeshiはバンドの中で一番キャリアが長く、情報の少なかった当時のアメリカンハードコアパンクにもかなり詳しかったので、いろいろと情報をもらったりしていました。彼はつねにアメリカンハードコアバンドのTシャツにライダース、ブーツのスタイルでいかにもバンドマンという風貌でした。当時、スケートボードの話をしていても、まったく会話に入ってこないような人でしたが、最近になって、「当時から所有しているスケートボードを友人に譲る」という投稿を彼のブログで見かけました。投稿された写真は'80年代当時は入手困難であったブランドのデッキで、トラックもハンガーがグラインドでしっかりと削られていました。本人に確認したところ、軽く「やってたよ」と言われ、「サーフィンもしたことあったよ」という意外な返事により、彼に対する自分の勝手なイメージを粉々にしてもらいました。
スケートボードを始めると、それまで自分が自由に使える時間のすべてを費やしていた“パンクカルチャー探求”にスケートボードで滑る時間が加わり、スケートボードをつねに持ち歩き、ポータブルオーディオでハードコアパンクを聴くという生活スタイルが確立されました。生活の中で一番と思っていたものに、もうひとつ一番のものが増えたような感覚。ハードコアパンクに出会った時、その言葉通り、自分は強い芯を持つ姿勢や自由を求める姿勢に夢中になったのだと思います。後に出会ったアメリカンハードコアパンクやスケートボードにも、同じようにいい意味でルールのない自由さやトリックをメイクするために必要な芯の強い姿勢を感じ、夢中になったのだと思います。今では時間配分こそ変わりましたが、スケートボードとハードコアパンクに費やす時間を設けるという姿勢は当時と何ら変わることはありません。
POW CM
このコラムを書くきっかけになった1985年頃のPOW CM映像。POWはG.I.S.M.の横山Sakevi氏とLaughin’ NoseのCharmy氏が編集・発行していたPunk Magazine。この映像に出演していたオリジナルT19の三野氏に話を聞いたところ、出演メンバーは三野氏、Skate Thing氏、東京ローカルの山田氏、当時大会にもよく出ていたスティーブ氏、そして東京を中心に活動していたSiCやCOPといったハードコアバンド在籍の福生ローカル、ケヴィン氏も出演! 撮影には横山氏も同行したという凄い映像です。いま観てもかなり新鮮です。
Ian MacKaye Talking About Skateboarding
Minor Threat “Salad Days”のジャケットでVansのローカットを履いている写真があまりにも有名なので、イアン・マッケイがスケーターなのはみなさんご存知のことと思います。イアンにとってスケートボードが精神的に重要だったとわかるコメントが収録されています。イギリスの重鎮ハードコアバンド、Chaos UKのガバ氏のインタビューで「若い頃の自分にはスケートボードが精神的な支えになっていた」という内容を読んだこともあります。
Metallica & Lip Cream
Thrasherの1987年2月号のPusheadが担当していたPuszoneに掲載された写真です。Metallicaのメンバー、Lip Creamのメンバーに加え、Cocobatの坂本氏も写っています! Pusheadのコネクションがよく分かる写真です。当時この写真を見つけた時はかなり驚きました。
Future Now
1986~87年頃(?)に発行されていたヨーロッパのパンク誌です。当時勢いのあったアメリカンハードコア勢がヨーロッパのハードコアシーンに影響をもたらしていた様子が分かります。スケートボードの記事も掲載されていました。
The Scumbag “Have Fun”
自分が'80年代後半に活動していたバンドの映像です。当時はバンド仲間でスケートしている人が結構いました。映像は1991年に再結成した時のもの。
Hiroyuki Wakabayashi
@possessed_shoe
Possessed SHOE. CO 代表。1969年生まれ。極上のスケートセッションをこよなく愛す自称Skate Rat。SKATEBOARDING IS PUNK ROCK!