'90年代から'00年代初頭にかけて洗練されたスタイルで人気を誇ったアレックス・リー・チャンがカムバック。
仲間たちや家族の協力により実現した不断の努力の結晶。
──ALEX LEE CHANG / アレックス・リー・チャン
Video by Hidenori Tanaka / Interview by VHSMAG / Photos by Iseki / Music by Alex Lee Chang
[JAPANESE / ENGLISH]
VHSMAG(以下V): 今回、ブランクを経てパートを完成させたわけだけど、改めてスケートを始めるまでの経緯は?
アレックス・リー・チャン(以下L): 2004年にstudio sk4の『Introduction』のパートの撮影を終えた頃に自分のブランドを立ち上げて、ファッションの方に活動がシフトしていった。サンデースケーターじゃないけど、当時は週に1回滑れればいいという感じだった。クルーザーは乗っているんだけど、気づいたら半年以上まともに滑っていない状態になっていたり…。そんな状況が10年ほど続いた。その後、駒沢で滑るようになったんだけど、山口健児に誘われて世田谷公園にも行くようになった。ちょうど子供が生まれたばかりで、保育園に送って会社が始まるまでの朝の時間にスケートをしようということになったんだ。
2004年に公開されたstudio sk4の『Introduction』パート。
V: 最初はどんな感じだったの? やっぱり身体は覚えていた?
L: いや、50-50やオーリーからのスタート。でもフリップからのFsノーズスライドはできるみたいな。得意技は覚えていて一応できてはいるんだけど、明らかに形とかヒザの動きが悪い(笑)。これは「できた」だけであって、「できる」わけではなかった。自分のスキルが信用できない感じ。タイルの路面とかに負けちゃうとか…プッシュだけでしんどいとか。物心がついてスケートをがんばって、これまでいろいろ残してきて…こんな感じだとこれまでの活動がもったいないし、悲しい…。スケートがあったからこそ仲間もたくさんいるのに彼らと一緒に遊べないのも寂しいと思った。ただ家族もいるし仕事もあるからどうすればいいのか…。50-50ができないなら1日ずっと50-50だけ練習するという感じで続けてきたね(笑)。
V: 途中で心が折れそうにならなかったの? 自分の一番いい頃のスキルは自分自身が知っているわけだし。
L: その解決方法はふたつかなぁ。ひとつは、初めはバカにしていたんだけど自撮りすること。僕のインスタグラムを観てくれる人はファッションの人とスケーターの2種類しかいない気がして。ファッションの人は僕のスケートを初めてそこで観る。そこで「いいね」やコメントが入る。一方でスケーターは僕がスケートをしているってだけでたぶん純粋に応援してくれたんだと思う。ポジティブな意味で「いいね」を押してくれたり「また滑ろう!」ってコメントが入ったり。それが本当に糧になった。もうひとつは、朝滑っていると50-50を練習している初心者の人と同じ気持ちで一緒に滑ることができる。その中には僕のことを知らない人もいる。そうなると一緒になって遊べる。そういう感覚が楽しかった。
V: これまでそれなりのキャリアがあるしプライドが邪魔することはなかった?
L: みんな「今」を生きているわけだからさ。今の自分に何ができるかのほうが大切だと思う。過去には戻れない。プライドがないわけじゃないけど、何もしなければこれまでできたことがみんなできなくなっていくわけだから。
パートを撮り始める前から自身のiPhoneで撮影したフッテージ集。
V: 約13年ぶりのパートを撮ろうと思ったきっかけは?
L: 50-50からまた始めてある程度スケートが怖くないようになった頃に、フィルマーのHIDE(田中秀典)とパートを撮っていた健児の撮影に同行することになった。撮影しているときに自分は端で練習していたり自撮りしていたりするんだけど、ちゃんとフィルマーが撮ってくれたらもっとモチベーションも上がるんじゃないかと思い始めて。贅沢なことだけどね(笑)。それでHIDEに撮ってもらったんだけど全然できない。もう撮影慣れしていないし変に緊張する。何度もトライするうちに「マジでフィルマーの時間を拘束している」と思うようになって。当たり前のことなんだけどね。技をメイクしても、必ずしも納得して使えるわけじゃない。それでもフィルマーの拘束時間は変わらない。このように裏方でがんばっている人たちは、これの繰り返しでやっていながらいい暮らしをしているわけでもない。そんな現状で。そこで考えたのは、自分のパートが作れたらスポンサーに掛け合ってフィルマーにすこしでもペイバックできたらいいなって思って。これがパートを撮ろうと思ったきっかけ。
V: そうしてパートが完成した。撮影期間は3年だよね? 振り返ってどう?
L: 目標は2年だったんだけどね。でも昨年怪我で半年ほどまともにスケートできなかったから。天気もずっと悪かったし。ただ、スケートと改めて向き合うようになってあまり難しく考えないようになったかな。低い縁石でも小さなバンクでも、どうすれば遊べるか考えたり。ひとりで滑りに行ってひとりで遊んでみたりとかもするし。昔はそんなこと恥ずかしくてできなかったけどね。コンクリートの多い東京で遊べる場所がたくさんあるんだからとりあえず遊んでみようってね。
V: パートのタイトル“Forcus Me Not”については?
L: これはスケーターじゃない、英語ができる親友に相談して決まったタイトル。だから実はH-Streetの『Shackle Me Not』が由来じゃないんだよね。フィルマーの労力を考えて、毎回じゃないけど撮影する度に時給1000円を払うようにしたんだけど、そんな額だとバイトと変わらない。専門職だからそれじゃ良くないと思った。自分も昔はやっていたんだけど、気軽にフィルマーに車を出してもらって撮ってもらって、できなくても「ありがとうね〜」ってガソリン代も何も払わず当然みたいな。フィルマーとして作品に名前が載ったとしてもメインはディレクターやスケーターでしょ? フィルマーなくしてパートなんて撮れないわけだからリスペクトしないといけないと思う。それで「自分だけが主役じゃない。自分だけにフォーカスしない」という意味合いで“Forcus Me Not”にした。「フォーカス」の綴りを“Focus”ではなく“Forcus”にしたのは「〜のため」という“For”という言葉を入れたかったからなんだ。
V: なるほど。ではパートの撮影はどのように取り組んできたの?
L: 撮影はほとんど早朝と深夜。仕事と家族の時間以外で自由に使えるのは必然的に寝ている時間しかないでしょ? だから早朝か深夜になっちゃう。その時間帯は平日でも7時前くらいまでは人も車も少ないから自由な感じ。今の時期だと4時頃から明るくなるから、最低でも2時間くらいは好きに滑れるんだよね。
だって彼らも仕事で注意しているわけだから
V: ストリートで撮影するときに気をつけたことは? 40代で家族もいるから問題は起こせないでしょ?
L: そうだね。いろいろあるけど、やっぱり迷惑をかけていることが前提にあるからそれ以上のことをできるだけしないことかな。歩行者が来たらすぐにやめるとか。一度あったんだけど、夜泣きする子供を抱いて落ち着かせようと散歩しているお父さんがいたから、全然邪魔になっていなくてもやめるとか。音で子供がびっくりしちゃうからね(笑)。自分も父親だから気持ちがわかるからさ。あとは警備員や警察を撮ったりからかったりだとかは個人的にあまり好きじゃない。だって彼らも仕事で注意しているわけだから。あくまでも悪いのはこっちだしね。そういう向き合い方かな。
V: ではスケートそのものに対する今の向かい合い方は?
L: 理想を言えば仲間とスケートをして一緒に最後まで飲んで遊びたいけど、家族も仕事もあるからそれはできない。だから時間の使い方に対してすごくシビアになったと思う。1日2時間スケートをしたら僕の場合は集中できる波がだいたい2回来る。2回目の波まで滑ると次の日はクタクタで滑れなくなる。だからその時しか撮影のチャンスがないという場合以外は力をセーブするようになった。その方がコンスタントにスケートができるし、いろんなことに対する支障を最小限に抑えることができる。あとはスケーターに対して上下で見ないようになったかな。トリックのレベルは違ってもやりたいことに向かってがんばっているのはみんな同じだから。昔は本当に天狗だった自分、みなさま本当にすみませんでした。
V: パート撮影で心がけたことは?
L: 周りが僕のBs 180ノーズグラインドを褒めてくれるから、それをどう魅せるかは考えたかな。掛け替えをしてみたり。あとはシャツを腰に巻いてひらひらさせながらラインをやっているイメージがあるって言われたからそういうのを入れてみたり(笑)。基本的にスポットではそこで何ができるかをすごく考えていろんなことを試して遊んでみたりした。とりあえずフィルミングしようというのはあまりなかった。フィルマーの拘束時間があるから、撮影の前にひとりで練習してフィルマーが到着してすぐに始められる準備をしたり。
V: バンクでのパワースライドからのテールスライドとかユニークなトリックも多かったよね。
L: あれはHIDEにアイデアをもらって撮影した感じだね。自分の考えていることだけだと限界があるし、一緒にいるフィルマーや仲間といっしょに「こんなことできたらおもろくない? すごくない?」というディスカッションがあってトリックや遊び方が生まれたりすると思うんだ。だから仲間にすごくアイデアをもらったね。
V: では思い入れのあるトリックは?
L: やっぱりラストのトレフリップ。まさかできるなんて思っていなかったから。あれは(深代)天馬に教えてもらったスポットなんだけど、最初は結構ゴツく見えて…。試しにトレフリップを回してみたら2回目くらいでポールを飛び越すことができて。フィルマーも一緒にいてくれたから撮り始めたらどんどんメイクに近づいていった。でもメイクできなくて結局3回通ったかな。嫁にどうしてもやりたいことがあるって言って、子供を寝かしつけてから撮影した。撮影は3回通ったけど、とりあえずオーリーだけしにひとりで何回も練習しに行った。練習しないと上手くなれないから。
V: そのスポットでは小原祐一と吉田 徹がゲストで登場するよね。あとは山口健児とJIMA(宮島大介)も登場する。
L: 徹は自分がスケートから離れていた時期に何も変わらず接してくれたし、スケートに戻ろうとしたときも応援してくれた。小原も人によって態度を変える人間じゃないからどんな状況の僕でも何も変わらず接してくれる。同い年だし一緒に滑っていて楽しいんだよね。小原とはふたりで酒を飲んだりもするし。こういう仲間ってかけがえないと思う。だからゲストとして出てほしいとお願いしたんだ。健児は朝練のきっかけを作ってくれた大事な人だし、JIMAは当時家が近くて近所でよく飲んでいたんだ。それでパートを撮り始めた頃にフィルマーとして協力してくれるようになった。MxMxMの撮影にも誘ってくれたり。友達はみんな大切だけど、特に彼らにはパートに出てほしいと思ったんだ。
V: みんなの協力あってこそのパートだね。今回のパートのBGMは自分で作ったんだよね? どうだった?
L: 率直に大変(笑)。できた音がいいのか悪いのかもわからなくなるんだよね。飽きさせないように抑揚のある感じにしようと心がけたり。最初は小原のアイデアで昔のCandyのパートで使ったIsley Brothersの“Summer Breeze”で行こうと思ったんだけど、まったく同じだと面白くないからリエディットやカバーを知り合いのアーティストに頼んだんだ。それでサンプルを作ってくれたんだけど何かが違った。でも何が違うのかまったくわからない。それをアーティストに説明できなかったんだよね。そこで、それなら自分で作ってみたほうがいいということになったんだ。それが苦行の始まりだったけど、これでまたひとつ音作りをしている人をリスペクトできるようになった。ちなみによく聴くと、実はIsley Brothersのメロディラインが入っているよ。
'90年代後半にリリースされたビデオマガジンCandyより。BGMはIsley Brothersの“Summer Breeze”。
V: では今回のパートの撮影で一番うれしかったことは?
L: トリックをメイクしたときにフィルマーが笑顔でハイタッチしてくれたとき。「オレが撮ったぜ!」って表情で来てくれるんだよね(笑)。もちろん、そこに居合わせた仲間も喜んでくれるんだけど、やっぱりフィルマーの笑顔が一番うれしい。基本的にHIDEはトリックをメイクしてもあまり喜びを見せないのかあまり表情が変わらないんだけど、パワースライドからのテールスライドをメイクしたときはめちゃくちゃ笑顔だった(笑)。あれはうれしかったね。「やった! HIDEを笑かしたぞ!」って。彼はスケーターが自分越えした瞬間を一緒に共有したいんだよね、たぶん。妥協なしだから厳しい目で僕の力を引き出してくれたと思う。だから今回のパートは僕なりに現在の自分のスキルのギリギリのところでがんばったつもり。
V: 友人や家族の協力なくして今回のパートは実現しなかったわけだけど、彼らに言いたいことは?
L: まず友人に対しては、調子が良くてビッグマウスで気分屋な自分に付き合ってくれて本当にありがとう。家族に対しては、夫婦の時間や子供との時間を削って撮影やスケートに行かせてくれて本当にありがとう。
V: では最後に今後の活動予定は?
L: Strush Wheels の(田中)竜一と、今回のパートのフィルマーのひとりのカメキョー(亀井強太)の作品の撮影をする予定。ドラゴンフィルムとタートルストロングフィルムの撮影だね(笑)。LOSS TIME WITH NIXONでZIZOWくんがテールスライドのフリップアウトをトライしながら「だってかっこいいじゃん。オレもやりてーよ」みたいなことを言っている瞬間こそスケートの醍醐味だと思う。歳とか関係なく純粋にやりたいかどうか。映像はその後についてくるもの。イーサン(石沢 彰)だって、純粋にスケートが大好きで最初からスポットに突っ込んでぶちコケて…ああいうのが自分の一番好きなスケートスタイルだから。自分はまだそこまで行けていないけど、いつかそんなスケーターになれたらいいなと思う。