SATORU TAGUCHI / 田口 悟

つねに自然体。振り返ればすべてが一本の線で繋がっていた。
チャレンジャーであり続ける大切さを教えてくれた友に捧げるスケートライフの集大成。

つねに自然体。振り返ればすべてが一本の線で繋がっていた。
チャレンジャーであり続ける大切さを教えてくれた友に捧げるスケートライフの集大成。

Filmed by Hidenori Tanaka / Edited by Tomoyuki Kujirai / Photos by Iseki / Music by Hiroshi Fujiwara

Filmed by Hidenori Tanaka
Edited by Tomoyuki Kujirai
Photos by Iseki
Music by Hiroshi Fujiwara

[JAPANESE / ENGLISH]

VHSMAG(以下V): まずはスケートを始めたのは1985年だよね?

田口 悟(以下T): 曖昧なんですけどね。当時は地元でスケートがすでに流行っていたんですよ。どこにでもスケートボードが売っていて、近くのホームセンターでおもちゃのスケートボードを買ってもらったのがきっかけです。自宅が坂に囲まれていたからデッキに座ってダウンヒルをするっていう遊びをずっとしていました。そんなときに近くに住んでいたコウヘイ兄ちゃんという人がPowell Peraltaのトミー・ゲレロのデッキに乗ってパワースライドをしながら降りて来て…。その人にオレたちの乗っているスケートボードは偽物だってことを教えてもらったんです。それで原宿のSTORMYとかムラサキスポーツの存在を教えてもらって、一緒に本物のデッキを買いに行きました。それが本格的なスケートとの出会いです。

V: '80年代半ばということはボーンズブリゲード全盛の時代だよね。

T: 初めて観たビデオが『The Search for Animal Chin』だったんです。当時はみんなでこのビデオを観て研究していたんですけど、暗黙の了解で先輩たちの乗っているデッキは乗っちゃいけないという謎のルールがありました。みんな怖い人たちだったんで…。キャバレロとかゲレロとかかっこいいデッキはすでに取られていたから、オレはタケシっていうPowell Peraltaではない日本人のモデルに乗るっていう…(笑)。

V: そんなモデルがあったんだね。ちなみにボーンズブリゲードの中では誰が好きだったの?

T: キャバレロですね。当時はキャバレロのミニっていうモデルがあったんです。それならセーフかなと思って後でそれを買いました(笑)。

V: ちなみに今も親交のあるTOKIOの長瀬智也も当時のスケート仲間だったの?

T: そうです。家が隣だったんですよ。ふたりとも親が働いていたから、よく一緒に回転寿司を食べに行ってからスケートして遊ぶという毎日でした。工事現場にふたりで行っていらないコンパネや釘とかをもらって、一銭もかけずにジャンプランプを自分たちで作ったり。家の前が坂だったんで、ダウンヒルからジャンプランプを飛ぶっていうスリルを楽しんでいました。智也はそれで何回か骨折していましたけど(笑)。

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V: 本気モードのスケーターだったんだね。

T: そうですね、本気でやっていました。その頃にBad Boy Clubっていうスケートショップが藤が丘にあって、そこの大会に出たんです。当時は中1ぐらいだったかな。そこでイーサン(故・石沢 彰)と出会いました。彼はその大会で優勝していました。今でも覚えているんですけど、ランの最後にめっちゃきれいなヒッピーをやったんですよ。そこからイーサンにスケートについていろいろ教わるようになりました。

V: スケートを始めたばかりの頃の衝撃は一生忘れられないものだよね。ちなみに初めてのスポンサーはどこだったの?

T: 青葉台にあったIndependentっていうショップです。Be'-in Worksのカツ(秋山勝利)さんがやっていたお店なんですけど、高3の頃に文化祭でスケートの大会を開いたんです。カツさんにジャッジをお願いして、優勝することができてまずRealがつくことになりました。そして一緒の高校に通っていた友人がその後にBe'-in Worksに就職することになって。そこでTerra Firmaというスケートブランドが発足されて、そこからデッキを出すことになりました。だからすべてがうまく繋がっていったという感じでした。

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V: 順風満帆な流れだね。その後、METROPIAにも所属しているよね。

T: そうですね。その前にAJSAでランキング1位になったことがあって公認プロになったんです。それがきっかけでHOMLESSというアパレルブランドのライダーになりました。それからMETROPIA(※2000年代前半に東京を中心に活動したスケートチーム/アパレルブランド)が結成された感じです。もともとQUEENZという名前だったんですけどね。その後原宿にAsanoha(※原宿にあったMETROPIAとHOMLESSの旗艦店)を出すことになって、そこで洋服の企画をやらせてもらったりお店に立たせてもらったり。

V: ライダーとしての活動をしながら裏方の仕事もその時期に学んだ感じだね。

T: そうですね。そこでデザインを学ぶことができました。高校の頃はずっとアトリエに通っていたこともあって、絵の専門学校に進学することにしました。そこで森田貴宏くんと出会ったんですよ。毎日デッキを持って通学していたから、放課後はアキバやジャブ池に滑りに行っていました。森田くんにビデオを撮ってもらったり。それがきっかけでKEくん(※元METROPIAディレクター/現VHSMAGインターン)と知り合ったんですよ。だから全部繋がっているんですよね。

V: METROPIAは面子が良かったよね。当時はみんな若くてカオス的な話も残っているんじゃない?

T: カオス的な…毎日がカオスだったからな…。当時は家の仕事も手伝っていたからツアーもなかなか一緒に行けなかったんですよ。途中で合流して数日参加するという感じ。当時のみんなは…いや、もう…すごかったです…(笑)。ここでは言えないことばっかりです。

V: なるほどね(笑)。Asanohaがなくなってからはどうしたの?

T: 進む道は洋服しかないと思っていたんでデニム生産の会社で働くことになりました。そんな中、岡田 晋くんのPush Connectionを手伝ったり。それから2009年にCHALLENGERを始めました。

まさにドリームスカムトゥルーです。全部震えました

V: クリスチャン・ホソイ、HUF、DC…。これまでCHALLENGERでいろんなコラボを形にしてきたよね。若い頃に憧れた海外のプロスケーターと仕事をするのってどんな感覚?

T: まさにドリームスカムトゥルーです。全部震えましたね。特にHUF。しかも向こうから話をいただいたんですよ。2011年にアメリカでキース・ハフナゲルと会って打ち合わせをして…めっちゃ緊張しました(笑)。HUFとはコラボ第2弾も実現できたからうれしかったです。ホソイもヤバかったです。これはDCを通して話が来たんですけど、トントン拍子で進みました。これがきっかけでDCともコラボをやることになった感じです。僕もDCのジャパンチームにいたことがあったのでこれも縁だと思いました。

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V: すべて本国からダイレクトにラブコールが来るのはすごいことだよね。ちなみにBandana Lyzeも好評だったんでしょ?

T: そうですね。CHALLENGERで初めてデザインしたのがバンダナだったんですよ。それから毎年バンダナのデザインをするようになって。2年前に展示会でバンダナの原画を飾っていたら、マレーシアの卸先の人から展示のオファーをいただいたんですよ。それと同時の日本の卸先からも同じような話をもらって。だったらツアーにしようということになって、日本とマレーシアで展示を行うことにしました。それが好評で、LAとか香港とかに続いてシアトルとサンフランシスコも決まりました。

スケートボードを擬人化して「スケートは楽しいもの」ということを表現

V: では今回のパートについて。パートを撮ろうと思ったきっかけは?

T: CHALLENGERはスケートブランドではないんだけど、HUFやDCとコラボしたりデッキを作ったりしていて。だったら実際にスケートをしてパートを出さないとダサいかなと思ったんですよ。途中で肩甲骨を折ったりしたこともあって撮影は結局2年ほどかかっちゃいましたけど。とりあえず撮影は朝にこだわろうと思いました。家族との生活のリズムのこともありますけど、観ていて気持ちいいものにしたかったんです。

V: パートのコンセプトは?

T: ダンサーの女の子が登場するんですけど、これはスケートボードを擬人化して「スケートは楽しいもの」ということを表現しています。イントロで登場する過去の写真は自分たちの歴史。今回のパートは昨年亡くなったイーサンに捧げるという部分もあるので…。中学の頃にスケートを教えてもらって…大会に出るようになったきっかけもイーサンでした。本当にお世話になった人だったんです。生前にもらったフッテージもパート内で使用しています。

V: パートの中で思い入れのあるトリックは?

T: イーサンと同じ技をやっているカットがあるんですけど、あれが一番思い入れが強いです。あれはちょうどイーサンのお見舞いに行っていた去年の今頃でした。VHSMAGのインスタであの技を観て「ヤベー!! やっぱイーサンかっけー」って思ったんです。田町でスケートした帰りにひとりでそのスポットに行って同じ技をトライしてみたんですけどまったくできなくて…。すぐその場でイーサンにLINEして「あの技ヤバイです!! 全然できないです」って言ったら「スピードを上げてトライしてみな! あとはメンツだよ」ってアドバイスしてくれたんです。その後もトライしたんですけどひとりではモチーベーションも上がらず結局その日はメイクできず…。「でも絶対あの技はメイクしたい!」と思って再トライすることにしました。結局メイクできたことをイーサンに伝えることはできませんでしたけど、今回のパートをどこかで観てくれると信じています。

イーサンはつねに攻めていました。できる技をやるんじゃなくて挑戦していました

V: スケートへのエントリーポイントとも言えるイーサンから学んだことは?

T: 大会でもイーサンはつねに攻めていました。できる技をやるんじゃなくて挑戦していました。「固い滑りをして優勝してもうれしくない」。いつもそう言っていました。そういう挑戦する姿勢を学んだと思います。

V: まさにCHALLENGERだよね。ではタイトルのLOVEFUL HEIGHTSに関しては?

T: 最後にイーサンに好きな言葉を聞いたんです。返ってきたのは「無償の愛」という言葉でした。この言葉がずっと自分の中から離れなくて、これを英語にしたときに何になるんだろうと考えていたんです。それである映画を観ていたときに、「LOVEFUL HEIGHTS、愛こそすべてだ」という言葉に出会ってこのタイトルに決めました。

V: そしてBGMは藤原ヒロシが担当したんだよね。

T: たまたま仕事の打ち合わせをしていたときにパートを撮っていることを伝えたら「曲を作るよ」って言ってくれたんですよ。真に受けてはいなかったんですけど本当に作ってきてくれて。「マジっすか!」って感じでした。それが1年前くらい。その曲をどうやって活かそうかと考えた結果、このような編集になりました。

V: 話を聞いていると、自然体で生きてきた結果、周りにいろんな人が集まってきた印象があるね。

T: たぶん、単純に運が良かったんです。地元にできたスケートショップがBe'-in Worksと関係していたとか…。そこからすべて始まっていますし、イーサンともすぐに出会えて…。好きなことをやっていたら、すべてが繋がっていったという感じです。

V: では最後に今後の活動予定を。

T: シアトルでのBandana Lyzeが控えているのと、海外から他のオファーもいただいているので展示がまだ続いていきます。NB Numericからシューズを提供してもらっているので、機会があれば何か一緒にできればいいですね。あとは引き続き変わらずCHALLENGERをやっていく感じです。

Name:田口 悟

Date of birth:1975年8月15日

Blood type:A

Birthplace:横浜

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