Photos by Junpei Ishikawa, Special thanks: OSC Distribution
VHSMAG(以下V): まず、初めてお互いの存在を知ったのはいつ?
マイク・キャロル(以下M): トニーを知ったのはスケートビデオでかな。初めて観たビデオが『Future Primitive』だったから。
トニー・ホーク(以下T): マイクを知ったのは同じくビデオで彼がSFでスケートしている映像を観たのがきっかけだったと思う。
リック・ハワード(以下R): トニーは’86年にオーシャンサイドで開催されたコンテストにいたよね?
T: いたね。
R: トニーを初めて見たのはそのときかな。
T: リックはBlockheadのライダーだったよね。Blockheadのファウンダーと知り合いだったから、彼を通してリックのことを知ったんだと思う。
R: 実は当時家が近かったんだよね。
T: そうだね。だからリックとは結構前からの知り合い。マイクは昔からの知り合いというよりはイケてるスケーターとして知るようになって、同じコンテストで顔を合わせるようになった感じ。
M: そう、だからトニーとはある程度名が知られるようになってから知り合ったんだ。でもオレがガキの頃にトニーのSOTYのパーティにいたのは知らないでしょ?
T: マジ? 1990年かな。
M: そう。だから今でも会場となった建物を見る度にトニーのSOTYパーティを思い出す。どうやってあのパーティに入れたのかは覚えてないけど。
T: じゃあ、それが初対面だね。1990年。
V: 当時はバーチカルとストリートがはっきりと分かれていたような印象を受けるけど、実際はどうだったの?
R: いや、オレらは何でも滑ってたよ。
M: オレらはバーチカルを見て育ったから。ずっとバーチカルを見てた。
T: スケートがバーチカルとストリートに分かれたのは’90年代半ばだね。その理由はランプがなくなってしまったから。だから当時はバーチカルをやるスケーターはユニコーンみたいにあり得ない存在だった。「あいつバーチカル滑ってるぜ。クレイジーだね!」ってな感じ(笑)。あの時代はスケートを始めてバーチカルを滑りたいと思う連中なんていなかった。だってストリートのどこでもスケートができるわけだから。郊外でもどこでもスケートを楽しめることがわかれば、誰もパッドを買って3時間もかけて遠くにある数少ないバーチカルを滑ろうなんて思わない。
M: ストリートスケートの進化とともにそうなっていったんだね。
T: そう。だからバーチカルでキャリアを築いた同年代のスケーターは途方に暮れていた。
V: 簡単に言えば、リックとマイクの世代がトニーの世代に取って代わったということだよね?
M: 取って代わったというわけじゃない。メディアがストリートにフォーカスしたからそう見えただけだと思う。
T: ストリートという新たな可能性が出てきたという印象かな。ストリートスケートが身近な存在になっていったからみんなストリートに傾倒していったということ。
M: たしかに身近だったということだね。
T: ’80年代終わりから’90年代初めにかけてスケートパークが次々と閉鎖したんだ。当時はスケートパークがメインだったから、みんな滑る場所を失ってしまった。それで流れがシフトしたんだ。そうやってみんなストリートに出ていった。
M: オレたちの世代はみんなガキの頃からバーチカルとストリートの両方を見て育った。だから自然と両方を滑っていたんだ。
V: そういえばマイクはPlan Bのビデオでバーチカルを滑ってたよね。
M: ああ、あまりうまくなかったけどね。
T: リックとマイクの世代のスケーターはストリートだけじゃなくトランジションも滑れないと相手にしてもらえなかった。
M: 徐々にトランジションを滑れないスケーターが増えていったけどね。すべてがストリートに集中していったから。
V: ’80年代にはやっぱり近所のバックヤードにランプがあったの?
M: すぐ近所にあったね。でも壊されることになったから、その木材を使って自宅のバックヤードにミニランプを作ったんだ。
R: オレの場合は地元のバンクーバーにRichmond Skate Ranchがあった。ミニランプとかバーチカルとか。バンクーバーは半年ほどずっと雨が降るからインドアパークで滑るしかなかったんだ。だからやっぱりトランジションは身近な存在だった。
V: なるほど。自分自身、トニー、リックとマイクの3人を見て育ったわけで、みんな紛れもなくスケートコミュニティの誰もが認めるレジェンドだよね。それぞれがスケートにもたらしたものは何だと思う?
T: 新しいムーブメントだね。新たな世代が生んだ革新的なスタイル。リックはユニークな存在でトランジションのスキルをストリートのあちこちで魅せてきた。マイクをPlan Bのビデオで観たときは、まさにゲームチェンジャーだと思った。EMBでのムーブメントを確立させてテクニカルなスケートの可能性を追求した。パット・ダフィ以外でPlan Bのビデオで思い出すことと言えば、やはりマイクのパートだから。
R: でもマイクは基本的にミニランププロなんだよ。ミニランプのコンテストでプロに上がったんだ。
M: そうなんだ。初めてエントリーしたコンテストもサンノゼのミニランプコンテストだった。
T: それって3方向にトランジションが伸びてたランプのやつ? オマー・ハッサンが優勝したんだよね。
M: そうだったっけ?
R: プロに上がるためにコンテストに出場しなければならなかったんだ。当時はそうだったような気がする。
T: プロクラスのコンテストに出場する必要があったんだ。
M: そうそう、プロクラスのコンテスト。他のみんなはどうだったかわからないけど、最低でもトップ10に入らないとプロモデルを出せなかった。
T: カンパニーによって基準が違ったよね。
V: マイクがプロに上がったのはH-Street?
M: そう、H-Street。でもトップ10には入っていなかった。それでもなぜかプロモデルを出してくれたんだ。誰かがマイク・タナスキー(※H-Streetの共同オーナーのひとり)を説得したんだろうね。
V: ではマイクはトニーとリックがスケートにもたらしたものは何だと思う?
M: トニーに関しては進化するというメンタリティ。長く続けるということ。パッション。プロであることすべて。パッションを保ちながらプロであるということ。
T: 老いることもね(笑)。
M: リックに関しては同じくパッションだけじゃなくスタイルのすべて。あとは楽しむという姿勢。
R: トニーはオレたちのようなならず者のスケーターという存在を外の世界に広めてくれた。
M: そうだね。トニーはスケートを大衆に広めて子供たちがスケートを続けられる環境を作ってくれた。トニーのおかげでスケートがここまで来れたんだと思う。
V: では話題を変えよう。トニーがLakaiに加入したきっかけは?
T: Lakaiとの繋がりは息子のライリーを通して。それまでは量販店と契約していた自分のシューズブランドがあったんだけど、それがなくなったんだ。でも、もうそんな大規模な契約はしたくなかった。ブランドをコントロールできないし疲れ果ててしまうから(笑)。それでライリーのモデルを履くようになったんだけど、正式にチームに迎え入れてもらえることになったというわけ。またリアルなスケートブランドと繋がることができて良かったと思っている。それまでは量販店だったわけだから。
V: それってHawk Shoesのこと?
T: そう。最終的にスケートブランドに落ち着いて本当に良かった。
R: トニーがLakaiを履いてくれてることが光栄だった。
M: トニーがLakaiを履いてる写真をいろんなところで見てたんだ。「マジでヤバい」。そう思ったね。
T: だからきっかけはライリーがシグネチャーモデルをリリースしたから。「弟たちのためにシューズを送ってもらえ」ってライリーに頼んだんだ。そうしたら家族全員にシューズが届くようになった。それから履くようになって今に至るという感じ。
V: トニーのチーム加入の反響は?
R: 言うまでもなく、信じられないほど良かった。だってトニー・ホークだから。
T: Lakaiはビッグなスケートブランドだと思うんだ。ビッグカンパニーがスケートシューズを作っているのではない。Lakaiはスケートブランドなんだ。正真正銘のスケートブランド。
R: そんなブランドは今や少なくなってしまったけどね。トニーからそんな言葉が聞けて光栄だよ。
M: Lakaiを始めて20年経つけど今も存続できているのがうれしい。
V: ではトニーのシグネチャーモデルのProtoについて。デザインや機能性にはどこまで関わったの?
T: デザインというよりシューズのサイジングとフィット感を担当した感じ。デザインに関しては昔のAirwalkのルックスを復活させるのが目的だった。
V: Prototypeだよね。
T: そう。そのシューズを昔よく履いていた。デザイナーがうまくまとめてくれたと思う。要するにライリーのモデルをもらうまで履いていた昔のバーチカルのシューズを復活させたかったということ。昔のAirwalkのバーチカルシューズのスタイルを残しながらそれを現代版にアレンジした感じ。
M: 今のスケートシューズはヴァルカナイズかキャンバスのものが多い。大手はハイテクなシューズを作っている。オレたちはクラシックなスケートシューズのルックスを残したかった。カップソールなんだけどヴァルカナイズのようなボードフィール。Vansもシルエットがクラシックだけど、そのタイプではなくて’90年代終わりから’00年代初めのスケートシューズが進化した頃のもの。それ以降はゴツくなっていっちゃったけど、当時のスケートシューズのスタイリッシュな現代ヴァージョンを作りたかったんだ。
T: しかもPowell Peraltaはこれまでにスカルのグラフィックを誰にも使わせなかったんだ。だからスカルのグラフィックを使いたいと言われても「どうだろうね、一応聞いてみなよ。いい返事はもらえないと思うけど」って感じだった。でもLakaiがリスペクトされるブランドだからPowell Peraltaから使用許可が下りたんだよ。
R: すごいことだよね。
V: Powell Peraltaのグラフィックの使用許可は基本的に出ないという話は聞いたことがある。
T: つねに問題になるんだ。あのグラフィックは自分自身ずっと使わせてもらえなかったんだけど、彼らもこちらの許可なしでは使用できなかったんだ。家族でやっていたクロージングブランドがあってそれがQuiksilverに買収されたんだけど、そのときもPowellから使用許可はもらえなかった。大きいブランドだからという理由でいろんなブランドからのリクエストを断っていたんだ。それなのにLakaiがリクエストをしたらOKが出た。
V: 素晴らしい。
T: これは本当にすごいことなんだ。Lakaiがリアルなブランドだということの証明だね。
M: マジでうれしいよ。すごいことだと理解してるけど、改めて聞くと…。
T: いや、今でも驚いてる。シューズボックスも見逃せない。
R: シューズを買ったら箱は絶対に捨てないように。
V: 箱にスカルのグラフィックとPowellのフォントでLakaiと入ってるんだよね。
R: そういうこと。
M: スローバック、そしてリスペクト。
V: リックとマイクは40代、トニーは50歳になったばかり。スケートとの向き合い方は昔と比べて変わった?
T: パッションはまったく変わらない。スケートをするパッションと意志はずっと同じ。肉体的には大変になるけど楽しさは同じだよ。
M: 間違いない。変わったとすれば身体のケアの仕方かな。でもメンタル的には何も変わってない。今も12歳の頃のような楽しむ気持ちは残っている。昔のようにデッキに飛び乗ってすぐに全力で滑ったりはできないけどね。昔は毎日ずっと滑ってたからそれが普通だったけど今は違う。大人になったらそれなりの責任もつきまとうし。責任が増えたのが唯一の変化かな。
T: 同じく一番大きな変化は責任が増えたことだね。子供もいるし責任があるからスケートをする時間が限られている。「よし、今日は1時から2時半までスケートする時間がある。形にしよう」という感じ。でもこのようなプレッシャーがあるからこそうまくいくこともある。ときにはね(笑)。
V: そうやって『Saturdays』や“50 Tricks at Age 50”のパートを撮ったってことだよね。
T: そうだね、日に2時間ほど撮影できればいい方だった。
R: そんなことができる人は他にいない。これこそトニー・ホーク。
T: そうするしかないから。昔は今と違っていつでもスケートができたけど、今はすべてスケジュール通り。
M: 今は難しいよね。少なくともオレの場合は滑る前にウォームアップが必要になっている。ホテルや自宅でまず柔軟やウォームアップをしないと滑れない。すぐにデッキに飛び乗って滑れないんだ。十中八九、背中とかどこかしら痛くなるし(笑)。
V: Protoのプロモビデオもいい感じだった。
R: みんなを笑顔にするプロモビデオだね。
M: 脚本&ディレクション by マンチャイルド。
T: マンチャイルドの構想が形になったんだ(笑)。
V: トニーがマンチャイルドと初めて会ったのは『The Flared』に収録されていたバーチカルでのセッション?
T: そう。
V: あれは最高だった。面白かった。
M: みんな笑顔になるよね。あのデッキを持ってマンチャイルドが登場したんだ。しかもあれはヤツが初めて乗ったデッキだった。バーチカルに着いて自然とあのダブルスやトレフリップのセッションが始まったんだ。ちょうど撮影の終盤だった。マジで最高の1日だった。まさにグランドフィナーレって感じ。
V: では最後にトニーに聞きたいんだけど、今後Lakaiでやりたいことは?
T: 今回のProtoのリリースはLakaiとのパートナーシップのほんの始まりでしかないと思っている。だからProtoのカラーウェイも形にしたい。Lakaiを通してスケートという自分のルーツに恩返しできたことがうれしいし、企業とかの大げさなプロモーションではなくまたスケートで物事を語ることができて本当にうれしく思っているよ。
トニー・ホーク
1968年生まれ。’80年代にボーンズブリゲードの一員としてバーチカルトリックの進化に尽力。自身の名を冠したビデオゲームが爆発的ヒットとなりスケートをメインストリームに広げる。50歳を迎えた今なお現役を貫いている。
リック・ハワード
1972年生まれ。’80年代終わりにBlockheadのメンバーとしてキャリアをスタートし、Plan Bの時代を経て’93年にGirlを立ち上げる。いぶし銀な滑りで人気を集め、現在はCrailtap傘下のLakaiを運営。
マイク・キャロル
1975年生まれ。H-Streetのプロとしてデビューし、’90年代半ばにSFの伝説スポットEMBを拠点にストリートにおけるテクニカルトリックを進化。名だたるスケーターがこぞって偉大なスケーターと称賛するレジェンド。