Video by Hideyuki Kondo / Interview by VHSMAG / Photos by Junpei Ishikawa & Archive photos courtesy of Junnosuke Yonesaka
Video by Hideyuki Kondo
Interview by VHSMAG
Photos by Junpei Ishikawa
Archive photos courtesy of Junnosuke Yonesaka
[JAPANESE / ENGLISH]
VHSMAG(以下V): スケートを始めたきっかけから教えてください。
米坂淳之介(以下J): 最初は小学2、3年の頃に量販店で売っているようなスケートボードで遊んでいたことがきっかけ。友達と坂道をどこまで立っていられるかみたいな感じで遊んでいたんだけど、3年生の終わりの引っ越しの時に失くして、それからスケートのことは1年ほど忘れちゃっていたんだ。そしてある時、兄貴(米坂真之介)が同級生の友だちと本当のスケートボードに乗っていきなり登場〜っ!!! それを見てオレもすぐに欲しくなって、ここぞとばかりに親に頼み込んでOKをもらって、代金を握りしめて兄貴と当時下北沢にあったViolent Grindへ行ったんだ。メーカーとか関係なくグラフィックのデザインでデッキを選んでSanta Cruzのジェフ・グロッソを買ってもらった。つまり本当のスケートに出会ったのはこの小学校5年の10月頃だね。
V: 新宿の有名スポットだったジャブ池で滑り始めたのはいつ頃だったの?
J: ジャブ池に行き始めたのはスケートを始めて1年ちょい経ってからかな。当時はOllie Magazineっていうスケート雑誌があったんだけど、そこに新宿中央公園が掲載されていてジャブ池の存在を知ったんだ。中学に入る前の話だね。
V: じゃあ、ジャブ池に行って初めてスケートコミュニティに触れた感じだったの?
J: そうだね。初めはローカルのみんなが上手すぎて滑れなかったから、ずっと座って見ていたよ(笑)。そして、端の方でロクスラできるカーブがあったから、そこだけ使わせてもらって細々とやっていたね。それから通う回数を重ねるにつれてローカルとだんだん話すようになって、そのうち一緒に滑るようになっていった感じかな。
V: 当時、影響を受けたスケーターは?
J: 当時はやっぱり川村諭史くんや是石(清和)くん。そして何てったってハッチャキくん。ジャブ池のローカルになってから少し経った頃かな。ちょうどハッチャキくんも通うようになってからは、よ〜く一緒に滑っていたな〜。高井戸でもね! オレと兄貴のトランジションでのBs オーリーは間違いなくハッチャキくん流。ハッチャキくん仕込みだね! キックフリップのグラブやトレフリップのテールグラブとかは、あの人が誰よりも早くやっていたよ。
V: ’90年代は、ストリートかトランジションのどちらかに寄ったスケーターが多かった印象があるけど、オールラウンドなスキルはどうやって身につけたの?
J: 自分の中でもつねにオールラウンドなスキルを欲していたし、一緒に滑る仲間や滑る環境がデカかったと思う。当時はまだCalifornia Streetが八王子にあった時代で、ショップから少し離れた場所にCalifornia Streetの社長の藤原さんがトランジションとかいろんなセクションをゲリラ的に置いてできたパークがあったんだ。そこでは社長が定期的に大会をやったり、蓮沼ノンキーツアーとかも主催していて兄貴とよく参加していた。だから、自然とトランジションを滑ることが多かった。ジャンプランプとかミニランプとか、トランジションを当たり前のように滑っていたよ。(吉田)徹くんも昔は砧公園の高架下にミニランプを作っていて、そこでもよ〜く滑らせてもらっていたし、昔は今のようにストリートが発展していなかったから、自然とトランジションスキルが身についたんだと思う。
V: やっぱり昔はよく兄弟で一緒に滑っていたの?
J: そうだね。年齢はふたつしか離れていないんだけど、ガキの頃の2歳違いって大きいよね。だから兄貴はいち早くコツを掴んでオーリーを高く飛んでいたね。どこへ行くにも一緒で、スケートパークも今のようになかったからセクションは自分らで作って練習してた。そんなあるとき、兄貴たちと作ったジャンプランプをみんなに見せたい、ただみんなに滑らせたい気持ちだけで、明大前から新宿まで普通にプッシュでも40分はかかるっつうのに、バカみたいにジャンプランプをスケートボードに乗せて運んだこともあったな〜(笑)。滑った後は新宿中央公園の草むらに隠すんだけど、すぐに撤去されちゃうんだよね(笑)。当時はプッシュで兄貴といろんな場所に行っていたよ。新宿以外にも、地元の明大前から駒沢公園や高井戸、1回だけ後楽園へも行ったことあるな(笑)。
V: そういう時代を経て、ジャブ池でNew Typeが結成されることになるんだよね。それはどういう経緯だったの?
J: New Typeは八王子のスケーターと駒沢公園のスケーターと新宿のスケーターによって結成されたんだよね。ルパン、カンポくん、オダッチもみんなCalifornia Streetのチームライダーだった。オレを初めてCalifornia Streetや大会に連れていってくれたのも兄貴だった。そんな行動派の兄貴が八王子のスケーターを20人くらいジャブ池に連れてきたんだ。それが大きなきっかけとなり、それからよくみんなでジャブ池で滑るようになってから少ししてNew Typeが結成された。だから兄貴がNew Type結成の大きなきっかけを作ったんだよ。
V: それで’91年にスケートチーム単位で日本初のスケートビデオ『Defeat』が完成した。
J: そうだね。ルパンや徹くんが撮影から編集まですべてやっていた。府中の編集室アポロでルパンは徹くんやカンポくんと寝る時間を惜しみながら夜な夜な編集していたのを覚えているよ。
V: ’91年にデビュー作を出してから、『Phackable People』、『Little Phat』と2年連続でリリースが続いたわけだけど、やっぱり日常的に撮影はしていたの?
J: だね〜。つねにビデオを回していたね。特に新しいトリックをトライするときは確実に回していた。作品を作って、その利益で機材も徐々に良くなっていったね! マジで“フロム・ゲトー”。何作目からだったか、しっかりパートを残せばギャラももらえていたしね。徹くんが経理をしてお金の管理をしてくれていたのかな……(笑)。ルパンがNew Typeの実質的なボスなんだけど、徹くんが大黒柱のような存在だった。徹くんとルパンなしではNew Typeは成り立たなかったと思う。
V: そして、日本のスケート史に残る名作『TOKYO ’95』がリリースされたわけだけど、当時の撮影はどんな感じだったの?
J: それまでと一緒だね。とりあえず滑るときは撮影するって感じ。当時は今よりもキックアウトが少なかったから、毎日のようにビル街で撮っていたかな。ジャブ池時代を振り返ってもそうだけど、大体いつもスポットに誰よりも先に来て滑って、そして誰よりも後に帰るオレらNew Type(笑)。みんなバカみたいに誰よりも滑っていたよ。だからこそ、あれだけフッテージを残すことができたんだと思う。撮影後はNew Typeのみんなで飯に行くんだけど、当時オレはまだ中学生のガキで大して金なんか持ってないからさ〜、年上のみんなから100円ずつカンパしてもらって何とか一緒に飯を食っていたね。本当にありがたかった。それくらいNew Typeのみんなには世話になったし、本当に一丸となっていたチーム。『TOKYO ’95』に話を戻すと、当時は秋葉原がジャブ池のような状態だった。アキバ全盛期の時代。当時はクマ(赤熊寛敬)と(岡田)晋が本当にテクニカルで爆発していたね。
V: 当時はNew Typeに加えて姉妹チームのFlowerもできて、さらにはCandyというビデオマガジンもあったから、アキバの状態が日本各地に伝えられていたと思う。ちなみに『TOKYO ’95』の反響はどんな感じだったの?
J: ある程度の反響は耳に入るけど、意識はすでに次のプロジェクトに向いていたからね。今のようにインターネットも普及していなかったから、時代的に遠くの反響が耳に入るのは難しかったかもね。でもビデオがかなり売れていたから、数字で感触を感じられたというのはあるかな。あとは作品がきっかけで三重のB7をはじめ、いろんな場所からデモで呼んでもらえたしね。
V: 『TOKYO ’95』がきっかけでMenaceに加入したのは本当なの?
J: そうだね。当時はルパンがアメリカに留学していたんだ。オレがアメリカに遊びに行った頃にはマイク・ヨーク、ジーノ・ペレズやウェスタン・コリアとかがルパンの家に遊びに来るほどコミュニティの一員になっていた。ルパンはそこで自分が作ったNew Typeの作品をいろんな人に観せていたんだよね。なぜMenaceのボスであるカリーム(・キャンベル)にまで『TOKYO ’95』が広まったのかはわからないけど、ある日、Droorsツアーで来日したカリームがMenaceのネックレスのヘッドを持って、是石くんに連れられてアキバに現れたんだよ。それで3人でアキバの隅に移動して、カリームから直々にMenaceへ誘われたんだ。断る理由なんかないよね(笑)。
V: そのときの心境はどんな感じだったの?
J: 「うおぉーーっ、キターーっ!!」って感じだったのを覚えているよ。「オレの好きなカリームがここに来て、オレにヘッドを差し出している!」って。当時はヒップホップをガンガン聴いていたし、カリームのファッションとかもドストライクじゃん。靴もシューレース縛らずに超ルーズに履いているあのラフな感じ。「いや〜、間違いない!」みたいな(笑)。まずはそこで口約束を済ませて、後でLAに行って本契約したんだ。しっかりサラリーももらえたし。そのお陰で向こうに行くときは金を持っていかずに現地の口座にプールされた金で遊んでいたね。
V: かなりタイトなクルーで知られるMenaceに温かく迎え入れられたんでしょ?
J: 超〜温かくみんなにウェルカムされたね。Menaceの時代は不良な感じで仲間同士の繋がりが濃かった。まだポール(・ロドリゲス)がチームに入っていない頃だね。そのすぐ後にMenaceからCity Starsに名前が変わったんだ。そのときのカリームのコンセプトは“インターナショナルなチーム”だった。だからオレみたいな日本人もいれば、ヨーロッパ人もチームに在籍していたんだよね。
V: Menace・City Stars時代で印象的だった思い出は?
J: ポールがまだチームに入ったばかりの頃に、City Starsの倉庫の周りで一緒に滑ったのは今でも覚えている。とりあえず回しからのカーブトリック外してなかったよ。あとは撮影でLAに呼ばれて、フィルマーの自宅にディヴァイン・キャロウェイとハヴィエル・ヌネズと泊まってひたすら撮影をしたのもいい思い出だね。いい経験になったと思う。
V: 当時の経験で学んだことは?
J: 英語ができなきゃ話になんねぇなってことだね。そこが一番大きい壁だよね。
V: でもCity Starsからプロモデルがリリースされたよね。
J: これっていう、はっきりとしたプロ昇格のきっかけはなかったんだけどね。「Junoはチームに長くいるしもうプロだろ」って、カリームが判断してくれてシグネチャーモデルが出ることになったんだ。もちろんサラリーとは別にインセンティブもきちんと入ってきたよ。
V: スケートの本場であるLAで活動した頃の印象は?
J: MenaceやCity Stars時代より前に、すでにルパンとLAで撮影をすることがあったんだけど、やっぱりビデオで出てくるようなスポットはよく行くわけで、すると行く先々で普通にガイ・マリアーノみたいなトップライダーがいたりして。ルパンに紹介してもらって一緒に滑ったり、スポットを攻めまくっていたから自然と現地のスポットに対応できるようになっていった。それでも、ウォーミングアップなしでとんでもないことをするアメリカ人特有のスタイルにはぶっ飛ばされたね。レッジの真上にどっしりと乗っかって流すスタイルもLAでより身についたかな。あとは行かなきゃわからないスポットそれぞれの条件の悪さには飛ばされたね。例えば、まだVHS時代にリリースされた『20 Shot Sequence』っていう、相当クールなスケートビデオのカリームのパートの最初のラインのスポット(ファウンテン)なんて路面が、もう〜超〜〜ラフだからね。
V: その後、Clichéに移籍した経緯は?
J: 残念なことにCity Starsがなくなっちゃったんだよね。そしてノースポンサーの時期を経てClichéに行くことになった感じだね。昔からJB(・ジレット)とは仲が良かったから、スムースにチームに加入できたよ。当時はフランス・リヨンに呼ばれてボスのジェレミー・ダクリンの家やClichéハウスに泊まりながら撮影をしていた。撮影の後はみんなでClichéハウスでパスタを作ったり、ゲームで遊んだり、博打したり。JBとルーカス(・プイグ)が一番良くしてくれたかな。その頃はちょうど豚肉と牛肉を控えていた時期だったんだけど、毎回、夕食のときにはルーカスが横でフランス語で書かれたメニューを指して「これ肉は入ってないよ!」ってオレが食べられる野菜料理を教えてくれるんだ。彼とJBはスケートもそれ以外でも本当に存在感があったね〜。
V: 当時はClichéのツアーにも参加していたよね。
J: そう。バン2台で動きながらフランスの10都市を廻った。ビールのスポンサーが付いたツアーだったから、行く先々でビールが飲み放題。1日に何都市か廻るから移動も休憩タイムみたいな感じだった。バンの移動中に窓に頭をもたげて寝ていると、チームメイトがさり気なく枕をくれたりさ。みんな優しいんだよ。オレは英語なんてろくにできないけどさ、フランスの田舎に行くと英語すら通じない場所があるわけよ。どうすればいいかわからないようなこともあったけど、みんなによくしてもらったから成り立っていたんだね。とにかくオレの会話のツールはスケートボードだった。
V: フランスではフッテージを残そうとハングリーに動いていたの?
J: 日本をレプレゼントするという意味でベストを尽くしたいという意識はあったね。でも、ツアー中はみんな午前中には起きるんだけど、コーヒー飲んだり、買い物に行ったりして、みんな別々に動いていて滑るまでは結構ゆっくりなんだよね。そっから集合して、みんなでスポットへ行くんだけど、撮影するヤツもいれば遠くでひとりポエムを書いているヤツもいたりと……。至って自由な感じだったから、力むことなく滑ることができたと思う。あとは何もできなさそうなスポットでも、とりあえず滑る。簡単なことからやって、できそうなトリックを模索するといった感じかな。そうしているとどっかで新しい扉が開かれることがあるから。例えメイクに時間がかかったとしても、誰も嫌な顔をしないね。ここはスケーター万国共通〜! とりあえず最高の環境で撮影することができた。本当にありがたかった。
V: では今回のパートの話を。このパートを撮ろうと思ったきっかけは?
J: まず、自分の活動を振り返ると、2010年にリリースされたNestaの『Get Up Stunt Up』以来、ちゃんとしたパートを出していないなと思って。それが一番大きいかな。スポーツや音楽もなんの世界でも、プレイヤーはつねにフレッシュじゃないとダメな世界だから、昔から自分の中では最低でも2年に1回はフルパートを出さなきゃと思っていた。だけど、全然そんなのはまったくブッチで5年もパートを出していない。大会も出場してない。ってことは、今の若いスケーターはオレの滑りを知らない人も少なくないよね。みんなにオレの滑りを見せなきゃと思ったんだ。あとは今年で40歳になるから、ひとつの節目を控えて、まずは一発見せたいと思った。オレは今も全然 “STILL ALIVE” だぜ! ということをみんなに見てもらいたかったんだよね。
V: 撮影期間はどれくらい?
J: 仕事の後にワンスポットだけ攻めたり、ワントリックだけ撮りに行ったりとちょくちょく撮っていたけど、本格的に撮り始めたのは昨年の夏前かな。だから1年弱だね。
V: パートの中で思い入れの強いトリックは?
J: ベタな話になるけどラストトリックかな。こういう感覚的なことって、やり込むことによってつかめるコツ、やり込むことによって知ることができる新しい感覚、やり込むことによって開かれる新たな扉、逆にやり込まないと、粘り強く突き詰めないと出てこない領域ってあると思うんだけど、そこまで行けたことで限界がまた広がったよ。今回は単純に今までにやったことのないトリック、例えやったことがあっても何かしらひねりを加えることを強く意識したね。今回は昔からできるトリックをただスポットを変えて撮るというアプローチではなかった。それはツアー中だったり、次から次へとスポットを攻めまくるっていうときはいいと思うんだけど、今回はパートを撮るということでそれなりに試行錯誤して作り上げたかな。音楽で言うとフリースタイルでサラっと1曲作るのと、アルバムの中でがっちりした1曲を作る違いというか。
V: そうして、今回は複合トリックという答えが出たということだね。
J: 撮影期間中は撮りたい汁が出まくっていたから、フィルマーとタイマンで撮ることが多かったよ。だらだらと場所も決めずにただ滑るんじゃなくて、撮りたい場所やトリックは決まっているから、決め打ちで撮影を続けた感じだね。
V: 『TOKYO ’95』からもう20年以上経って、40歳を目前に控えて身体の衰えも感じると思うけど、スキルをキープする秘訣は?
J: 35歳以降は、年を重ねると同時に体の水分が減少して関節が固まりやすくなるから、運動の後と寝る前の柔軟は欠かさずやるけど、これといった秘訣はないと思う。強いて言うならそれは、誰よりも滑るのが好きなことかな。昔は毎日のようにスケートができていたからモチベーションが下がることもあったけど、今はスケートができる時間が限られているからつねに滑りたい気持ちでいっぱいだね。あとは滑り続けるだけだよ。
V: では最後に、今後の展望は?
J: みんなこの歳になると、ライダーの場合はチームを発足したりブランドを立ち上げたりするものだけど、残念ながらそういうことにはそこまで興味はない。ただここまで来たら逆にいくつまで現役のライダーでいられるか。しがみつくんじゃなく、引っ張れる立場で。それが米坂淳之介というライダーの使命のような気がしています。そのために全力で毎日生活をしている。今や数少ない同世代のライダーたちはみんな同じところで戦っているんじゃないかな。立ヤン(立本和樹)なんかは今も大会に出てるからね。マジすごいよね! そういった意味ではサッカー界のカズ、野球界のイチローみたいな人は本当にリスペクトです。だからこれから先も変わらず全力で滑り続けるよ!
Name:米坂淳之介
Date of birth:1977年4月25日
Blood type:A
Birthplace:東京都
Sponsors:SK8Mafia、Nesta Brand、Oakley、Fizz Bearings、Thunder、ST-Line、Arktz、New Type、Nakama Racing