村岡洋樹と池田幸太がadidas Skateboardingと契約を結んだというニュースが、先週のINTERSECTIONを機に公にアナウンスされスケート業界を震撼させました。にわかに噂されていましたが、日本屈指のクイックマスターとポップキングが、日本人初となるadidas Skateboardingとのライダー契約を正式に果たしたのであります。ウォシュレットとスマホがデフォルトな平成くんには少しイメージしづらいかもですが、これは昭和世代からすると野茂英雄がメジャーリーグでノーヒット・ノーランしたときに匹敵するぐらい凄い(古っ!)。
それはまだadidasがSkateboardingラインを発足する前の’90年代中盤に遡るんだけど、イケてるスケーターの足下にはadidasがあった。いわゆるハイテクシューズというかスケート用に開発されたスケシューが主流になりつつあった頃に、非スケシューブランドであるadidasを履いて滑る。Gazelle、Superstar、Campusなんかに映える3本線が、ひとつ上の男の証。滑りやすさを追求したスケートに特化したスケシューブランドに対し、街中で滑っているときにいかに“かっこよく見られているか”にこだわったのがadidasユーザー。単純に美意識の問題かもしれないけど、当時はそういうメンタリティが今よりも色濃かった気がします。
それから時は経ち、紆余曲折しながらもadidas Skateboardingが完全にスケートシーンに定着して現在に至るのですが、オフィシャル契約ではなかったにせよ、2000年頃に日本でもライダーとして活躍していたスケーターがひとりいたということはあまり知られていません。それは、立川スケーターのモリくんこと西平守安。化物といっても過言ではない尋常ではないスキルの持ち主で、ちょっとした都市伝説スケーターになりつつあった彼こそが、短い期間ではありましたが国内でadidasをレペゼンしていた男。
2000年頃に、グローバルのライダーが本国より来日し、ジャパンライダーである西平守安とスケートセッションなる企画を当時雑誌のライターとして担当させてもらったのですが、西平守安のスキルが高すぎて場の空気が怪しくなってしまったので、途中「手加減してくれ!」と自分から指令を出して事なきを得たというのはココだけの話です。ヘェ〜、ヘェ〜、ヘェ〜。
─KE
西平守安パートは12:30〜14:47あたり。当時のハイテク気味adidasがチラホラン千秋。