Interview by VHSMAG, Photo by Junpei Ishikawa
VHSMAG(以下V): まずはAKEEMという名前の由来から聞かせてください。
AKEEM THE DREAM(以下A): 『星の王子ニューヨークへ行く』という映画があって、主役のエディ・マーフィの役柄の名前がAKEEMだったんですよ。なんか「王子さまっぽい」ってことでその名前がつけられました(笑)。
V: スケートを始めたのはオーストラリアに住んでいた頃ですか?
A: はい。’84年に親の仕事でオーストラリアに引越したんですけど、それから半年ほどでスケートを始めました。当時地元のモールに行ったとき、催事場にランプが特設されていてバーチカルのライディングを見ることができる機会があったんですよ。その時、スケートに興味を持ちました。
V: ちなみにオーストラリアのどの街ですか?
A: キャンベラっていうオーストラリアの内陸の都市です。小さい街でモールは2個くらいしかないんですけど、サーフ/スケートショップが一軒だけありました。それまでにオモチャのスケートボードは持っていたんですけど、本当にスケートに興味を持ったのはそのランプでのセッションを見てからです。
V: 当時のオーストラリアはそのようなイベントがあるほどスケートが盛り上がっていたんですね。
A: いや、そうでもないですよ。実はサーフィンがオーストラリアの国技なんです。それでサーフショップがあって、ド派手な洋服が売ってある一番奥にスケートボードのセクションがちょこっとあった感じ。’80年代はスケートバブルがはじけた後でパークが次々と倒産してバックヤードにランプを作って細々と盛り上がっていた時代だったと思います。そしてストリートスケートが少しずつ盛り上がり始めていた頃。ボーンズブリゲードのビデオで言うと『Future Primitive』が出たくらいですかね。シーンは小さかったですけどスケーターはいました。’70年代に閉鎖されてからほったらかしのスケートパークがあって、その敷地内にあっためちゃくちゃにトラッシュされたキーホールでみんなスケートをしていました。
V: 当時影響を受けたスケーターはやはりボーンズブリゲードの面々ですか?
A: 最初に影響を受けたのは地元のスケーターです。催事場で滑っていたトレバー・キングさんって人です。スタイリッシュで好きでした。オーストラリアでは結構有名な人です。
V: オーストラリアには何年滞在していたのですか?
A: 今考えると、たったの2年半なんですよね。最初は言葉の壁があって…。だからスケートボードにハマったのかもしれないです。その後、すぐに仲間がたくさんできましたけどね。帰国したのは’87年くらいです。
V: 東京に戻ってきてどうでしたか?
A: あまり東京にスケートのイメージがなかったんですけどワクワクして帰ってきました。原宿のホコ天でみんなが滑っていたジャンプランプ全盛の時代です。帰国子女あるあるで「オマエ、上下関係わからないのか」って怒られたりしていました(笑)。当時は(長島)亘くんやダイコンくん(田中大輔)、原宿のSTORMYやムラサキスポーツの先輩方に遊んでもらっていました。
V: ’90年代初めにT19に加入した頃は誰と滑っていたんですか?
A: (尾澤)彰くん、サルーダくん、YOPPI(江川芳文)さんとよく滑っていました。彰くんとYOPPIさんがT19の大瀧さんと繋がっていたから、その流れで仲間に入った感じだったと思います。
V: 個人的にすごく聞きたいことがあるんですけど、当時、アンディ・ハウエルが手がけていたクロージングブランドのZero Sophistoに所属していたじゃないですか。しかも’95年にリリースされた『Freedom』ではパートを残しています。チームにはどういう経緯で加入したんですか?
A: 当時はよくアメリカのスケーターが来日して、日本のコンテストでデモをするみたいなのがよくあったんです。それで’94年頃にコンテストで滑っていたら、来日していたアンディ・ハウエルに呼び止められて「新しい洋服ブランドを始めるんだけど興味ない?」みたいに言われて。それで電話番号を交換した感じです。当時、アンディ・ハウエルはサンディエゴに住んでいたんですけど「遊びに来い」と誘われてどうにかしてアメリカに行ったんです。あの時、どうやって連絡したんだろう? もしかしたらマジで手紙とか書いたかもしれないです(笑)。
V: 当時はインターネットなんてなかったですもんね。
A: そう。それでどうにか連絡を取り合って空港まで迎えに来てくれて。初めてのアメリカ旅行だったかと思います。思い出深い旅でした。「グラント・ブリテンと写真撮ってきて」って言われて行ってみたものの、スポットはビデオで観るよりも全然難しいし、ベンチも思っているより高い(笑)。さらにドンガーとかも合流して、気後れして滑れる感じじゃなくなりました。ショックでした(笑)。もう少しいけると思っていたんですけど(笑)。
V: スポットは実際に行かないとわからないですよね。
A: せっかくグラント・ブリテンが来てくれたのに結局写真は撮れなかったような気がします。でもスケートボードとはまったく関係ないいろんな経験をさせてもらい帰国しました(笑)。その後、本当に国際便で洋服が届いたりして…さらにはビデオを作ることになって。それで『Freedom』のパートができた感じです。
V: ということは代理店とかを介さずに直接Zero Sophistoのライダーとして自分でやり取りしていたということですか?
A: そうです。バイリンガルだったというのが良かったのかもしれないですね。もし英語が話せなかったら、誘われてもアメリカに行こうなんて思わなかったかもしれない。いや…英語が話せなくても行っていたかな。言葉の壁がない分、楽だったというのは確かです。空港に送り迎えしてくれて、自宅に泊めてくれて…。今振り返るとアンディはいい兄貴だったなと思います(涙)。
V: HECTICに関わっていたのはその後ですか?
A: 同じ時期ですよ。YOPPIさんがショップをキュレーションすることになって、近くで見守っていた感じで。それで店に立たせてもらうことになったんです。
V: HECTICでデザインもしていませんでしたっけ?
A: それはもっと後のことですね。LOVELYというファンジンを作ってデザインに興味を持ち始めてからです。HECTICは原宿にあって、NIGOさん、スケシンさん、藤原ヒロシさんといったYOPPIさんの周りのクリエイティブな人たちがいろんなことをやっていた時期だったり場所だったりしたんで、そういった人たちがやっていることを間近で見るという貴重な体験をさせてもらいました。その影響で何かしら貢献したいという気持ちが芽生えて自分なりにできることを模索しました。それでファンジンを作ったりデザインに挑戦したりしたんです。多分感動したんだと思います。自分たちの手で、自分たちの好きなようにやる手法に。そしてストリートやカウンターカルチャーのあらゆるものが洪水のように目に入ってきて理解できるようになっていった。それの一部になりたいと思いました。
V: では話は代わりますけど、スケートの魅力は何だと思いますか?
A: かっこいい移動手段じゃないですかね(笑)。
V: ちなみに時代時代で変わるとは思いますが、これまでに影響を受けたスケーターは?
A: これはありきたりになっちゃうんですけど、最初はランス・マウンテン。『Future Primitive』は、ランスの1日を追うという構成になっているんですけど、上手いとか下手とかじゃなくて街を駆け抜けるだけの感じが好きでした。あとはマーク・ゴンザレス、ジェフ・フィリップス、ジェイソン・ジェシーやニール・ブレンダー。特にゴンズやニール・ブレンダーは今でも面白いアイデアを世界に発信していますから。どうしてもその世代のスケーターになっちゃいますね。
V: やっぱりスケートが上手いだけじゃなくてクリエイティブな人が多いですね。
A: もちろんクリスチャン・ホソイやクリス・ミラーも好きですけど、敢えて挙げるとすれば彼らが先に思い浮かびます。ナタス・カウパスとかはファッションセンスもかっこいいし。スポ根でやっている人よりは、ふざけてやっている人のほうがグッと来ます。
V: これまでスケートをしてきて一番印象的だった出来事は何ですか?
A: 一番印象的だったのはオーストラリアに住んでいた頃に初めて見たジェイソン・ジェシーですかね(笑)。ホソイ、クリス・ミラー、ジェイソン・ジェシー、ゴンズ、エディ・エルゲラ、トニー・マグナッソンという豪華な面子がデモで来たんです。でもキャベラには来てくれなくて仲間とバスに乗ってシドニーまで行きました。ジェイソン・ジェシーのシルバーとグリーンにブリーチされたヘアスタイルに衝撃を受けました。そのときの滑りもヤバかったですし。あとは’90年代にXLARGEの近辺でパウロ・ディアズ、ガイ・マリアーノ、ビリー・ヴァルデズといった当時のLAスケーターズと一緒にスケートした経験はいい思い出です。
V: では東京のシーンの魅力は何だと思いますか?
A: 僕の時代で言うと、スケートボードが東京の一部の音楽シーンとコネクトしていたことですかね。オーストラリアではパンクミュージックとスケートがコネクトしていてそれが好きでした。芝浦にあったGOLDっていうクラブでSTÜSSYがイベントを行うときはランプが中に設置されて、音楽が流れている中でスケートできるという場所になっていて、そういう場所でカルチャーがクロスオーバーしていたところが魅力ですかね。
V: 音楽とファッションとかの感度が高いのはそういう場所があったからかもしれないですね。
A: そういう環境が感性を育ててくれたんだと思います。あのようなイベントがなかったらクラブに入るきかっけすらなかったでしょうし。未成年でもどさくさに紛れてスケートしながら一晩中音楽を聴くことができたっていう。だからいろんな情報をインプットできたんだと思います。スケートだけをする場所にももちろん行きましたし楽しかったですけど。
V: ではファッションや音楽など、これまでにインプットしてきたサブカルチャーのどのようなものに惹かれますか?
A: アンチ体制とか、アンチルールとか。世間に疑問を持つきっかけを作ってくれるものだと思います。そういう性質があるサブカルチャーが好きです。
V: デザインなどの活動を行うにあたってスケートボードから受けた影響は何かありますか?
A: DIYの精神ですかね。なかったら自分で作る。ファンジンを作るアイデアもスケートボードから来ているし、洋服を改造するのもそう。パンクにも通ずるところがあるのかもしれません。スケートボードとパンクが近い存在だった時代に育ったからかもしれないですね。今の時代はものが溢れかえっているから、大事なものをセレクトする能力が問われると思います。
V: では最後に、現在の活動内容や今後の予定を聞かせてください。
A: 来月10月6日(金)から渋谷の16というギャラリースペースでFACT.というブランドとベルリンのSKATEBOARD MUSEUMが協力した「NO SHITTY ADS」というタイトルのエキシビションを行います。’80年代に盛んに作られたスケートボードファンジンをたくさん見ることができる楽しいインスタレーションを予定していますのでぜひ遊びに来てほしいです。
幼少期をオーストラリアで過ごしスケートボードに出会う。帰国後、’90年代を代表する国内屈指のスキルを持つスケーターへと成長。ファッション、アート、音楽への造詣が深く、現在もストリートカルチャーの最前線で活動中。
@akeemoney