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TOKYO Z-BOYZやOWNを経て現在はアーティストとして活躍するダイコンこと田中大輔。独自のスタンスで追求し続けるアートやスケートについて語る。
──田中大輔

2020.09.08

[ JAPANESE / ENGLISH ]

Photos_Junpei Ishikawa
Special thanks_Diginner Gallery, Candy Video Magazine

VHSMAG(以下V): スケートとの出会いはどんな感じでしたか?

田中大輔(以下D): 最初の出会いは小学校3年の頃かな。友達がスケボーを持ってて、それを借りて近所を徘徊してみたけど立って乗ることができなくて。それで座って足で漕いでたんだけどちょっとした坂で止まれなくて、停まってた車に突っ込みそうになって。スケートとの最初の出会いはその1日。それ以降、しばらくはスケートから離れてたんだけど、中学1年くらいから兄貴の影響でサーフィンにハマって、その延長でスケートをするようになった。スラロームだったり、バンクを見つけてターンしたり。

V: 始まりはサーフィンだったんですね。そこから本格的にスケートにシフトしていくきっかけは何でしたか?

D: 高校に入ったくらいの頃に、自分が通ってたサーフショップが大人の事情でなくなってしまって。どうしようかと思ってたときに、地元の先輩にスケボーを勧められてそこからやり出したね。実はその少し前に、近所の公園の前で自分とは明らかに違う乗り方でスケボーをやってる人たちがいて。みんなガードレールとかマンホールを使って、ボンレスやオーリーやヨーヨープラントとか、いろんな技をやってて。のちにそれがSTORMYライダーの川村諭史、江川芳文、星野正純、吉賀 健だってわかるんだけどね。とにかくそのときすごく衝撃を受けたのを覚えてる。

V: そのクルー、ヤバいですね…。そこからそのクルーとはどう繋がっていったんですか?

D: 当時から仲の良かった是石(清和)がライダーとしてSTORMYに出入りしてて、自分たちの滑ってるところに彼らを連れてきたのがきっかけで話すようになったのかな。そんな感じでいきなり超上手い人たちと遊ぶようになっちゃって。

V: 当時の影響はスケート誌とかじゃなくて現場だったんですね。

D: 自分はそうだね。雑誌とかテレビじゃなくて、人がやってるのを見てなんかビビッと来ちゃうとやりたくなっちゃうんだよね。例のSTORMYの連中を見たときに、サーフィンと出会ったときと同じ衝撃を受けたんだよね。

V: それはジャンプランプの時代ですか?

D: そうだね。

V: 1989年頃のOllie Magazineでダイコンくんのメソッドエアーの写真があったのを覚えてます。その頃の時代ですね。

D: 19歳の時だ! 懐かしいね(笑)。

V: 当時影響を受けたスケーターは誰でした?

D: 16歳くらいの頃に観た『Sure-Grip Beach Style』(1985年)っていうコンテストビデオに出てたスケーターたちに凄い影響されてた。リアルでは地元で一番上手かった先輩。でもその先輩は表に出ることに興味がなくて地元を育ててたね。空き地にセクション作って草大会やったり、そのセクションや空き地の周りの壁に絵を描いたりとか。そこを拠点に駅前のロータリーとか渋谷の美竹公園とかいろいろ滑りに行ったり。その当時では珍しかったんだけど、ビデオカメラを持ってる人もいて。それで撮った映像をテレビに繋いで簡易的な編集でボーンズブリゲードのパクリみたいなスケボービデオを作ったり、写真を撮って見せ合ったり。サーフィンやスケボーのライディングのイラストを描いた日記みたいのをつけたりもしてたね。みんなで迷彩のMA-1を買ってチームの名前を入れたりTシャツとかロングスリーブ作ったり。その先輩を軸に毎日そういうことをやってた。だからその先輩の影響は大きいね。

自分の足で動いていると人と人とがちゃんと面と向い合って、しっかり繋がる

V: 当時はスケーターのために作られたものってほとんどなかったじゃないですか。だから作るしかなかった。そのDIY精神が'80年代のスケーターの根底にあって、それが魅力のひとつだと思うんですよ。今も活動を続けてる当時の人たちは例外なくそうですよね。

D: 単純にないから作ってたんだろうね。真似だろうとなんだろうと自分で動くしかなかったからね。携帯やネットもなかったし、サーフィンやスケートの人口も全然いなかった。Thrasherだって当時は渋谷、原宿エリアだとラフォーレの洋書店にしかなくて価格も2倍くらい。そこで1枚の写真を見て衝撃を受けるわけじゃない? 「すげぇ! 何の技だろう!? やってみたい!! でもやり方わからない」みたいな。稲妻が走るというか、想像力が膨らむよね。そこが動画が蔓延してる今の時代との違いだよね。当時は情報が入ってくるスピードが圧倒的に遅いから、自分で探さないとダメなんだ。やっぱり想像だけ膨らんでも、現場を目撃しない限り目的に到達するのが難しかったかもね。だからトリックを覚えるスピードも今と全然違ったと思うよ。でもそういう時代を経てきてる人は自分でなんとかしなきゃってわかってるからとにかく行動してた。自分の足で動いていると人と人とがちゃんと面と向い合って、しっかり繋がるみたいなね。少なからずスケートやアートってそういう感覚があると思うからね。もっとも、自分はその時代にDIY精神なんて言葉の意味すら知らなかったし、どちらかというと、JUST DO ITになるのかな(笑)。とにかくやりたくなったら、やるみたいな。

V: '90年代に入ってからはどうしてたんですか?

D: 当時はオールドスクールとニュースクールの溝が大きくなった時代で。でもオレが仲良くしてるスケーターはその両方のスタイルを持ってて、加えてクセのあるヤツが多かった。(高橋)猛規や(米坂)真之介とか(長島)亘とかそうだったよね(笑)。とにかく個性のあるヤツを集めたチームとかブランドがあったらいいなって思ってたし、日本にはそういうのがなかったから。そんなことを目論み始めたときにスポンサーしてもらってた代理店の社長から「うちで働きながらブランドやってみないか」って誘いを受けて。その代理店で働きながらOWNを始めたんだよね。'94年だったかな。立ち上げ当初のデザインは自分以外だとペインターのJUMPINとKAMI、ヘアサロンUNiqueのナオキに手伝ってもらってね。最初の2年はその代理店で働きながら回して、’96年に独立したんだよね。
 

 

V: OWNはいい子ちゃんの集まりじゃなかったですよね。さらに独特の世界観を持ってる人の集まりだった。スケーター、アーティスト、ミュージシャン…YOU THE ROCK★もメンバーでしたよね。どうやってネットワークを広めていったんですか?

D: 元々は独自の世界観を広めて繋がるってコンセプトで始めたのがきっかけだったんだよね。全国に個性があって、独特の世界観を持ってるヤツはいっぱいいるし、スケートスタイルもかっこよくて、ユニークだったり。そんな人たちとフックアップしてるうちに、スケートだけじゃなくスノーボーダーやグラフィティアーティスト、ミュージシャンといった他のカルチャーでも個性のある人たちとどんどん繋がっていったんだよね。とにかくOWNはクセのあるヤツや問題児みたいのが日本中から集まってた。ちょっと違った視点のドメスティックブランドを根付かせたかったんだろうね。コンテスト志向というよりはライフスタイルやクリエイティブな部分を魅せていくような方向性だったよね。

V: やっぱ姿勢的にはカウンターだったんですね。当時はOWNでツアーとかかなり行ってましたよね。忘れられない出来事とかあります?

D: 公に言えないことが多すぎるな。そうだな、スケートツアーの帰りに富士山近くの高速道路を走行中に、大量の未確認飛行物体と遭遇したのが意外と忘れられない出来事かな。口で説明するのは難しいけど、凄かったし本当に神秘的だった。そのとき一番ウケたのは、ツアー前に「生まれてこのかた未確認飛行物体とかこの目で見たことないから信じない」って言ってたYOTTYっていうOWNのデザインをしてくれてたメンバーが、目の前で何機も四方八方に飛び回りながら光る飛行物体に遭遇して「いや、オレもはっきり見えてるよ! あれは紛れもなく、未確認飛行物体だねっ~」って言ってたのが忘れられないかも(笑)。

V: ヤバいですね(笑)。当時と今とスケートの向き合い方は変わりましたか?

D: だいぶ変わったかな。というのも21歳のときに骨折して、それによって生じたトラウマに長いこと悩まされてたからね。克服するのに7年くらいかかったけど、それからは気の合うデュードたちと最高なセッションするために滑る。それだけをやってきた感じだよね。そこから十数年経って一昨年骨折するまでに、いろんな場所でいろんなスケーターと最高なセッションができたことで自分なりにいいスケートライフを送れたと思ってる。今回の怪我も長期離脱だったけど、身の置き方やリハビリ、トレーニングとか含めて勉強になった。その甲斐あって、1年8ヵ月振りに滑ったときもマジで必死だったけど「ブランクはたった2週間」ってずっと自分の脳みそに言い聞かせてたから思いの外ボチボチ滑れてね。大層な滑りじゃないけど、自分的に幸先いいかなって思えたよ。これからもスケボーは楽しく無理ない感じで続けていけたら最高だな。

V: インスタの動画観ました。高尾のボウルでも滑ってましたよね。あそこはダイコンくんが足を骨折した場所でもあるんですよね?

 

D: 骨折した場所であって、DIYした場所でもあるんすよね(笑)。あのときは骨が折れた瞬間に「下の娘のお見送り誰が行くんだよ! 誰が晩ごはん作るんだよ」って叫んだのを鮮明に覚えてる。骨折した瞬間にとっさに思ったのは家族だったんだよね。2週間後に岡山でポップアップも控えてたから、その次に「岡山どうするんだよ!」って。それで最後に「スケボーいつできるんだよ」ってなって…。それで気がついたらFabricの小島くんの据え置きビデオカメラで一部始終を撮られてたっていう(笑)。それから2年経つけど、ちょっと前に蕨エリアの人が「怪我したトリックをその場所でメイクして初めて完全復帰だよね」って言ってたからリベンジしないとっすね(笑)。

V: アートはどういう経緯で始めたんですか?

D: 親の影響もあって子供の頃から絵描きになりたいという思いは心にずっとあったんだよね。サーフィンやスケボーをやるようになってからは一旦、そっちにシフトしたから数年は離れたけど、'90年代後半くらいにKAMIくんやトーマス・キャンベルに影響されて自分の創作意欲が再燃して。

V: アーティストとして初めての仕事は何でしたか?

D: 雑誌の挿絵みたいな仕事は少しやってたけど、本格的な仕事としてはよく描いてたキャラがHi-STANDARDの人たちの目に留まって、彼らのライブのバックドロップの仕事をしたのが最初。それでお金をもらったときに、子供の頃の夢にだんだん近づいてるのかなって思ったね。

V: いきなりでかい仕事ですね(笑)。

D: そうなんだよ。しかもこれ本当の話なんだけど「そのうち自分の絵でHi-STANDARDの仕事とか来たりして」って、ふと思った次の日にオファーが来たからね(笑)。実際そのときは緊張したの覚えてるな。初めてのオファーが人気の人たちだったから。初めてのお使いみたいにドキドキだったよ(笑)。

V: アート活動で自立する決意をしたときはどんな感じでした?

D: 初めてのオファーのときに強く思った。けど、そこから4年後の2002年かな。DISKAHって名義でアーティスト活動を始めた年だから。

V: 作風もドローイングやステンシルを駆使したものとかいろいろありますよね。

D: ドローイングやレタリングはフロウな感じだったりするけど、作品に関してはステンシルにしても道具やその使い方を少しアレンジしたりするね。多角的で独創性のある作品にしたいからね。


V: 今年の5月から6月にかけて自由が丘のDiginner GalleryでSTAY DOOMというエキシビションを行っていましたけど、新型コロナウイルスの影響で通常とは違った形でしたね。

D: 元々、会期自体は決まってたんだけど、この状況下になってしまってどう作品を見せるか。それを考えたときにDiginner Galleryと考えが一致してオンライン(動画配信)でやることになったんだよね。画像だけだとどうしても臨場感が伝わらないと思うから、創作の過程をドキュメントしてコメントも撮りつつ、完成した作品も四方八方から撮って映像として見せる。でも生で見ないと伝わらないこともあるから、実際に鑑賞したい人はアポイント制という形を取って来廊してもらうことにした感じ。作品に関して説明すると、世界で困難を乗り越える状況になってしまった現在や自分の国でも起きているさまざまな問題をテーマにして、そのさまざまを子供や怪獣や妖怪に見たててモチーフとして取り入れた作品。ナンセンスと思われるようなビジュアルかもしれないけど、自分の個性をちゃんと生かした作品に仕上がったと思う。
 

 

V: 最近だとラッパーのKGE THE SHADOWMENのアルバムジャケットにアートワークを提供していましたよね。どういう繋がりなんですか?

D: 昨年の個展に岡山のBLOCK BASTAを介して来られたリピーターの方の旦那さんがカゲくんだったんだよね。そのときは何者かわからなかったんだけど、パッと見たときにただ者ではない感じがしまくってて。そして話してるうちにラッパーをやってることを知って。それから何日か経ってBLOCK BASTAを通してオファーしていただいた感じだね。
 


 

V: さらにinstantの25周年コラボを手掛けたりポップアップを展開したり話題が絶えないですよね。宮下パークにできたボウルで滑ってる映像も観ましたよ。

D: スケートはあの大怪我から調子が完全には戻らないかもだけど、年齢と身体と向き合いながら無理せず限りある時間の中で楽しみたいと思ってるんだ。スケートする場所ももっと作りたい。アートに関しては引き続き創作活動を続けて個展やポップアップなど国内外問わず精力的に動いて、アパレルやスケートブランド、また商業アートのデザインもどんどんやりたいと思ってる。壁画もこなしたいね。できることはいろいろあると思うから、新しいタイプの人達ともコラボしていければと思ってるね。 
 

V: VHSMAGとのコラボのデザインもありがとうございました。

D: こちらこそありがとう。アバンギャルドなイメージというよりかは、純粋にVHSMAGの本拠地東京から世界に日本のスケート事情を発信してるイメージを、東京人である自分がデザインしました、みたいな感じっす。 





V: では最後に今後の活動予定を。

D: この情勢だから世界がどうなるかわからないけど、ずっと作家活動は変わらず続けてくよ。予定としては車をモチーフにした絵本、大人向けの絵本の制作と、100部くらい限定の写真集を同じ出版社からリリース予定。ROUGH AND RUGGED、BILLABONG、AREth、GOLD SCHOOLとのコラボ。9月17日から27日まで茅ヶ崎のコーヒースタンドFLOWER COFFEE BBという場所で展示。10月12日から18日から中目黒LOUNGEで展示。11月くらいにPROD.LRとGENERAL RESEARCHでポップアップストアを開催予定。来年は神奈川某所で展示の予定。あとは結構先になりそうだけど、個人的に行きたいDIYスポット直談判単独ツアーを目論んでます! 今のところそんな感じっす。
 


 

Daisuke Tanaka
@haksid / diskah.com

1970年生まれ、東京都渋谷区出身。クリエイティブ集団OWNの頭首にして日本スケート界の兄貴。東京ストリートカルチャーを長年牽引し続ける生粋のスケートボーダー。アーティスト名はDISKAH。

 

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