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RAWな滑りで'90年代に頭角を現したイーストコーストのパワーハウス、ドニー・バーリー。これまで語られることのなかった波乱万丈なライフストーリー。
──DONNY BARLEY

2019.09.04

[ JAPANESE / ENGLISH ]

Special thanks_Element Japan

VHSMAG(以下V): まずはスケートとの出会いから。

ドニー・バーリー(以下B): 8歳の頃の教会に一緒に通っていた友達と『SKATEBOARD』という映画を観たのがきっかけ。それからゴミ箱に捨てられたバナナボードを見つけたんだ。ボロボロだったからベアリングにオイルを差して時々乗るという感じだった。当時はどちらかと言えばBMXにハマっていたんだけど、10歳の頃に本格的なデッキに乗っている年上の連中を見て唖然とした。11歳の頃にはBMXが盗まれて新品を買うために貯金。12歳になってようやく金が貯まってBMXを買いに行ったら、数年前に見た本格的なデッキがずらりと並んでいたんだ。BMXのことなんてすぐに忘れてSimsのKamikazeモデル(ライジングサンのグラフィック)を買った。トラックは青のGullwing、ウィールは赤と黒のSimsのストリートウィール。まだ小さな子供だったから胸の高さほどある大きなデッキだった。坂があればデッキに座って下って遊んでいた。どこへ行くにもデッキと一緒。仲間はみんなBMXに乗っていたからオレを引っ張りながらいろんな場所へ行った。スケートをする運命にあったんだと思う。

V: 当時影響を受けたスケーターは? 現在のRAWなスタイルを形成するきっかけとなったのは?

B: '80年代初めから半ばにかけて、BMXとスケートをフィーチャーした雑誌でクリスチャン・ホソイを見てすぐに心を奪われた(ライジングサンのデッキを乗っていた)。やがてエリック・ドレッセンの存在を知ることになるんだけど、今でもヤツはお気に入りのスケーター。Dogtownのドレッセンのモデルは3、4枚乗ったんじゃないかな。同じ時期にお婆ちゃんに呼ばれて彼女の部屋に行くと、TVにトニー・ホークが出ていた。お婆ちゃんを通してトニー・ホークの存在を知るなんておかしな話だけど(笑)。'80年代終わりにはスケートビデオを観まくった。Powell PeraltaやSanta Cruz、『Sick Boys』、そしてH-Street。'90年代になるとビデオや雑誌が手に入りやすくなったからあらゆるスケーターの影響を受けていたね。

V: 『Eastern Exposure 3: Underachievers』のパートは衝撃的だった。当時はToy Machineのライダーだったと思うけど、あのパートを撮影するようになったきっかけは? ダン・ウルフからオファーがあったの?

B: いや、ダンと会ったのは'92年、ペンシルベニアのスケートパークだった。ヤツは(マイク・)マルドナドやバム(・マージェラ)と滑っていて、その日に数カット撮ってもらって電話番号を交換した。その後にフィリーで撮影を重ねて、そのフッテージは『Eastern Exposure 2』で使われたんだ。それからサンディエゴに引っ越して1年も経たずに仲間とSFに移ってクリス・センと出会った。ヤツの家に数ヵ月ステイさせてもらって、サトヴァ(・レオン)とロブ・ウェルシュと一緒に住むことになったんだ。Toy Machineにフックアップされたのはサトヴァを通して。『Eastern Exposure 3』に関してはダンがカリフォルニアに来たときに「パートを撮る気はないか」と聞かれたのがきっかけ。SFで撮影を始めてボストンとフィリーで撮りまくった。
 


 

V: ボストンやフィリーでの撮影はどうだった? 当時のリッキー・オヨラやマット・リーズンはどんな感じだったの?

B: ボストンではジャマール(・ウィリアムス)、ロビー・ガンジェミやパナマ・ダンとよく撮影していた。最高だった。ボストンは地元から近かったし、カリフォルニアに移る前によく滑っていたから馴染みのある街だった。フィリーに関しては、ダンと到着したその日にサウスストリートにあったリック(・オヨラ)の家に行ったんだ。みんなオレたちの到着を待っててくれて撮影のプランを立てていた。そしてダンがヤツらにこれまで撮れたオレのフッテージを見せたんだ。あれは忘れられない時間だった。だってみんなで輝ける大きなチャンスだって実感した瞬間だったから。まさに火がついた瞬間。それからはフィリーのストリートを攻めるヤツらの後ろ姿を追いながら驚きの連続。ふたりともユニークなスタイルの持ち主でトリックセレクションも独特だった。猛スピードでスポットを攻め立てるスタイル、鬼流しのグラインド、路面の悪さも関係なし、交通量の多い通りへ突っ込むアティチュード。クリエイティブなラインや完成度の高いスイッチトリック。とりあえず当時のフィリーはRAW、反抗的で無法地帯という感じだった。

V: '90年代半ばはテクニカルなトリックが主流だった記憶があるけど、RAWな俗に言う“イーストコーストスタイル”を貫いたのは意図的だったの?

B: そうじゃないね。ただ当時の“ストリートをハイスピードに駆け抜ける”というスタイルにシンプルなトリックセレクションが合っていたというだけ。ベーシックトリックを猛スピードかつ最高のクオリティでメイクするという感じかな。テクニカルなトリックはシティホールやLOVEで散々やっていたし。マットとリックはやりたいことを何でもできる最高のスケーター。フレッド・ガルもそのひとりだった。当時は自分のスケートが進化した最高の時代だったと思う。

V: 『Eastern Exposure 3』と同じ年に『Welcome to Hell』でもパートを残していたけど、ふたつのパートの違いは?

B: 『Eastern Exposure 3』は純粋無垢といった感じで、自分の限界を試しながらゆっくりスケーターとしての自信が築かれた作品だった。誰も知らないスポットをイーストコーストの連中とチャージ。ハイスピードでプッシュしまくったシティスケーティング。最高だった。一方で『Welcome to Hell』は車でさまざまな場所のスポットに移動して撮影した感じ。別にそれがダメだと言っているわけじゃない。ジェイミー・トーマスが車を運転して、アングルのディレクションをして、撮影して、励ましてくれて…夕食代も出してくれた(笑)。ジェイミーもしっかりとしたヴィジョンを持っているスケーターだ。自ら手本となって動いていたから、ヤツを満足させるのは本当に大変だった。ヤツの血の滲む努力を見たらオレたちもやらないわけにはいかないだろ? 自分のスポンサーのために努力して、それがブランドイメージに直結するというのは誇らしいことだった。毎日のように限界を広げて頑張っていた。
 


 

V: バーリーグラインドが『Welcome to Hell』のエンダーだったよね。トリック名はあのビデオパートで名づけられたの?

B: たしかThrasherに掲載された写真がきっかけだったと思う。もしかしたらマイク・バーネットが名づけ親かもね。

V: 自分の名前がトリックにつけられるってどんな感覚?

B: 光栄だよ。不思議に感じるときもあるけどね。でも個人的には時間とともに深みを増している。というのも数年前に父親がガンで他界したんだ。彼から受け継いだ姓が広く知られるのはうれしいことだから。

V: '98年の『Third Eye View』でElementのチーム加入がアナウンスされたよね。その経緯は?

B: 移籍した理由はふたつかな。ひとつはジェイミー・トーマスがZeroを始めてダン・ウルフがElementのチームマネージャーになったこと。ダンから手紙が届いたんだけど、そこにはElementに移籍するべき理由がたくさん書かれていた。ということでヤツに説得されたということかな。ジェイミーは自分のプロジェクトに専念していた。ヤツのいないToy Machineがどうなるか不安だったというのもあったんだ。
 


 

エドに涙を見せなかったけど影でひとり泣いた

V: Elementに感じた魅力は? エド・テンプルトンのブランドを去るにはそれなりの葛藤があったと思うけど。

B: オレはダン・ウルフを信頼していたんだ。それが一番の理由。それにティム・オコナー、リース・フォーブス、ケニー・ヒューズやビル・ペッパーなど、大好きなスケーターがチームにいたから。Toy Machineを辞めたとき、エドに涙を見せなかったけど影でひとり泣いたんだ。あの決断は簡単じゃなかった。エドはしっかりと世話をしてくれたのに、オレは自分のキャリアのために自己中心的な決断を下した。しかもそれは一度だけじゃない。

V: まあプロはそういう経験をみんなしていると思う。'00年の『World Tour』で魅せたサンタモニカのトリプルセットでのSsハードフリップはかなりヤバかった。振り返って思うことは?

B: 実はファーストトライで乗りゴケしたんだ。これを自慢するのはオレにとってこんなことは珍しいことだから(笑)。でもメイクできたのは3回通ってから。正直言うとスケッチーだったから満足できていないんだ。だからその後に6回ほどトライしたんだけどクリーンにメイクできなかった。
 


 

V: Elementの後はBirdhouse経由でZoo Yorkに移籍したけど地元であるイーストコーストのカンパニーに所属して感じたことは?

B: Birdhouseに所属したのはあっと言う間だったけど楽しかった。トニー・ホークをはじめとするライダーとツアーを回れたのは最高だったし、トニーのファンへの対応とスケーターとしてのスキルはハンパなかった。刺激的な1年だった。Zoo Yorkに関しては、サル・バービエがAestheticsのライダーをごっそりZoo Yorkに連れて行った頃でオレとケニー・ヒューズも誘われたんだ。当時はハロルド・ハンター、ロブ・ウェルシュ、ゼレッド・バセット、ケヴィン・テイラーも所属していた。大好きなイーストコーストのスケーターばかりだからオファーにNOとは言えなかった。ボードカンパニーからボードカンパニーへ移籍を繰り返すのはいいとは言えないけど、NYCでみんなと一緒に活動したかったんだ。

V: それからまたElementに舞い戻ったわけだけど、その経緯は?

B: 不況とその他いろいろかな。Zoo Yorkは経済的に苦境に立たされていてサラリーを支払うことができなかった。当時はFOUNTAIN OF YOUTHというスケートショップを運営していたんだ。子供も生まれたばかりで築130年の家も買ったばかりだった。不況なんて予期していなかった。そんなときにElementのチームマネージャーのライアン・キングマンから連絡があったんだ。「アンバサダーとしてElementに所属して、ゆくゆくはセールスのポジションに興味はないか」って。家族を養うのに必死だったから選択の余地なんてなかった。オレはショップ、妻はウェイトレスとして働いていた。そんなときに父親が他界したんだ。家族にとって本当に大変な時期だった。すべてが崩れ落ちてショップも閉店に追い込まれた。Elementがなかったらホームレスになっていたと思う。だからElementに対する思いが深いんだ。ファウンダーのジョニー(・シラレフ)もオレを信じてくれた。それ以来、スタッフの一員になれて感謝している。うまく事が進んで本当にラッキーだったと思う。

V: 裏方に回ってどうだった?

B: スケートショップを運営していたからそれの延長のような感じだった。最初の数年は勉強することばかり。Elementの客層だったり、ビジネスの構造だったり。浮き沈みの中で手を差し出してくれた人たちには本当に感謝しかない。

V: 大変だったこととうれしかったことは?

B: ライダーが去っていくのを見るのは辛かったね。でもオレも同じようなことをしてきたから。同僚が去るのも辛い。いつかプロになるかもしれない若いスケーターに商品を提供して成長を見守ることができるのはうれしい。ライダーと密接な関係を築いて、この歳で交流を深めることができるのもうれしいね。

V: 現在のElementでの役職は?

B: メインからフロリダまで、ハードグッズのセールスの東海岸担当。担当以外の地域の取引先ショップでイベントをやったりすることもある。トレードショーはもちろんすべて出席。あらゆる形でブランドに貢献できるように心掛けている。

V: '15年にはBurlyと題してシグネチャーモデルともいえるチノパンをリリース。これまでの功績がこういう形で祝福されることについて思うことは?

B: 光栄としか言いようがない。娘が3人いるんだけど、彼女たちにスケートコミュニティでの父親の功績を知ってもらえるのはうれしい限りだね。朝も夜も感謝しているよ。スケートはオレの人生を何度も救ってくれたんだから。
 


 

キミはひとりじゃない。オレだってできたんだからキミにだってできる

V: そしてLegends Collectionもリリースされたばかり。このコレクションについて説明を。

B: ある日、ジョニー・シラレフから昔リリースされたSMOKERというオレのシグネチャーモデルのアップデート版が送られてきたんだ。題してNON SMOKER。笑い転げたね(笑)。それを使ってちょっとしたコレクションをリリースしたいって言うんだ。「いいね。お願い!」って感じだった。昔はタバコを吸っていて、いろんな物質をなかなかやめれなかった過去がオレにはある。話せば長くなるけど…数年前に専門の治療を受けてやっときれいすべてやめることができた。ジョニーもElementの仲間もオレの苦労を見てきて復帰する手助けをしてくれた。だからこれはオレとElementの仲間にとって深い意味のあるコレクションなんだ。ちなみにこれはどのメディアにも話したことがないんだけどね。ということで、もしあらゆる物質に依存していてやめられない読者がいれば、専門機関に相談してほしい。キミはひとりじゃない。オレだってできたんだからキミにだってできる。近くの専門医を見つけて降伏してほしい。おかげで2019年9月25日でシラフ生活5周年。キミにだってできるはず!
 


 

V: これまでのスケートキャリアの中で一番思い出深い出来事は?

B: すべての始まり。デッキに座ってダウンヒルしたこと。こけて擦りむいたこと。初めてのチックタック。ヒザのカサブタを剥いたこと。ジャンプランプから飛んだこと。ドロップインしたこと。純粋な頃の記憶すべて。TRUE LOVE!

V: では最後に今後の活動予定は?

B: 最近は家の近所でスケートを教えている。夏には小さなスケートキャンプも開催している。充実感でいっぱいだよ。こういった活動を世界中で形にしたいと思う。無料のスケートキャンプがいいね。アフリカの恵まれない地域で教えたい。そして妻と娘たちをアシスタントとして連れて行くんだ。スケートは人を救うからね。いつか実現できればいいな。うまくいくように祈っていてくれ!

 

ドニー・バーリー / Donny Barley
@donnybarley / www.elementjapan.com

1973年生まれ、コネチカット州出身。'90年代から'00年代にかけて、ハイスピードかつ力強いスケーティングで人気を博す。代表作は『Eastern Exposure 3』、『World Tour』など。現在はElementのアイコン/セールス担当としてブランドを支えている。

 

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