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RVCA主催のBEAUTIFUL LOSERS回顧展、NOW & THENで来日したエド・テンプルトン。自身が掲げる哲学やモラル、そしてスケートやアートのキャリアを振り返る。
──ED TEMPLETON

2019.10.07

[ JAPANESE / ENGLISH ]

Photo_Junpei Ishikawa
Special thanks_RVCA Japan

VHSMAG(V): 何度も答えたことのある質問だとは思うけど、ハンティントンビーチに住み続ける理由は?

エド・テンプルトン(以下E): 確かにずっとハンティントンビーチが拠点だけど、ここ最近は他の場所に移りたいと思っているんだ。プロフィールにひとつの場所で生まれ、暮らし、死んだなんて書かれるのもイヤだから。少し他の街へ移るのもいいかなと思っている。ハンティントンビーチに住み続けた理由はそれが効率的だったから。スケートインダストリーの中心は南カリフォルニアでToy Machineを取り扱うTum Yetoもサンディエゴにある。ハンティントンビーチはインダストリーの中心地に近いからちょうどよかったんだ。ただ昔は仕事をするためにサンディエゴまで車で通っていたけど、今はコンピューターで何でもできる。だからもうハンティントンビーチに住む続ける理由はない。家を持っているから簡単に離れることはできないけどね

V: 昔は向かいにジェイソン・ディルが住んでいたんでしょ?

E: そうだね。彼が子供の頃によく一緒に滑っていた。偶然だけど、ちょうどさっきジェイソンからショートメールが届いたばかり。最近絵を描くようになったから相談したいみたい。あれからかなり経ってまたこういう形で会うようになるのは面白いよね。

V: '90年代初めにジェイソン・リーたちと一緒にストリートスケートの進化に貢献したわけだけど、当時はどんな感じだったの?

E: 当時は進化に貢献しているなんて思っていなかった。やりたいことをやっていただけ。何年も経って振り返って初めて、「もしかしたらストリートスケートに変革をもたらすムーブメントの一員だったのかもしれない」と思うようになったくらいかな。でも当時は本当に何も考えていなかった。オレらはマーク・ゴンザレスがすべてを変えていると思っていたから。ジェイソン・リーも進化に貢献しているなんて考えていなかったと思う。オレらはただふざけながらフリースタイルのトリックをストリートのボードでやっていただけ。そしてステアを飛ぶようになっていった。でもそれもただ子供が子供らしく遊んでいただけなんだ。クリエイティブに他と違ったことをやっていただけ。当時はそれが日常で普通のことだったから。

V: プロキャリアがスタートしたのはNew Dealから?

E: 初めてのスポンサーはSchmitt Stixで、それがNew Dealになってそこからプロに昇格したからそうだね。

V: 初期のスポンサーが30年振りに復活したことに対する感想は?

E: まあ、いいんじゃない? New Dealはオレの当時のモデルの復刻を出したいって言ったんだけど、実はすでにToy Machineからリリース済みだったんだ。

V: 同じグラフィックのモデル?

E: そう。だってオレがグラフィックを描いたんだから。New Dealのグラフィックというより、オレのグラフィック。だからToy Machineからもリリースしたんだ。New Dealの復活はいいんじゃないかな。今回のBeautiful Losersの回顧展も同じようなものだし。「オーケー、いい時代だったよね」って過去を祝福しても問題ないんじゃないかな。過去にとらわれるのはイヤだしつねに前に進んでいたいけど、楽しかった時代を懐かしむのも悪くない。Beautiful Losersの10周年もNew Dealの30周年も同じ。当時の思い出が蘇るからファンは喜んでいるんじゃないかな。

V: '90年代初めは誰よりも早くハイウォーターのパンツを履いていたよね。今じゃそれがトレンドになっているけど。

E: まあね(笑)。オレがファッションのトレンドセッターと言いたいところだけど、実は丈の短いパンツを買ったってだけなんだ。ウエストが30インチでレングスも30インチのDickies。「30×30のDickies」という響きがクールだと思ったんだ。そういうわけでそれを買って、無理やり穿いていた感じ。だからオシャレをしようとしたわけじゃなくてただ丈が短かっただけ。それが気に入ってずっと穿き続けていただけなんだ。

何かを言えるプラットフォームがある場合は意味のあることを言いたい

V: New Deal『1281』のパートでは同性愛嫌悪問題をテーマにした曲を使っていたよね。昔から社会問題や政治問題に関心があったの?

E: ああ、411の“Those Homophobic”ね。昔から何かを言えるプラットフォームがある場合は意味のあることを言いたいと思っていた。というのも、すべては'80年代終わりから'90年代初めにかけてPoweredge Magazineのクリスチャン・クラインから受けたアドバイスの影響が大きい。彼はいつもこう言っていた。「みんなオマエの言葉を聞くんだから大切なんだよ。オマエはプロスケーターだからみんな耳を傾ける。みんなオマエのインタビューを読むんだ。意味のあることを言え」って。それが表立って社会的問題について話すようになったきっかけ。オレの言葉を聞いてくれるのなら意味のあることを言ったほうがいい。

V: たしかにそうだね。

E: それに、そうすることによって言葉に責任が出てくる。それに当時から同性愛嫌悪という社会問題に興味があったんだ。同性愛嫌悪についての記事を読んだり、パンクのリリックを調べたり。パンクに関しては何を歌っているのか知りたいと思うようになった。たとえばDead Kennedysはカリフォルニアの州知事や政治情勢について歌っていた。リリックの内容を知らずに音楽を聴くのはイヤなんだ。Fugaziもオレにとって重要なバンドで彼らのリリックも意味のある内容ばかり。どの曲も特定の問題について歌っているんだ。だから同じように発言できれば彼らからバトンを受け取ることになると思った。彼らのようなミュージシャンから学んだものをシーンに還元したいんだ。

V: アーティストとしても活動しているけど、アートに傾倒したのは?

E: スケートをする前の幼い頃からアートが好きだった。でもスケーターになって突然クリエイティブなタイプの人間に囲まれるようになったんだ。一緒に育ったスケーターはみんなパンクに傾倒していた。だから部屋の壁にはフライヤーが貼ってあった。そしてそのフライヤーにはさまざまなアートワークが施されてあったんだ。

V: そうやってアートにハマっていったってわけ?

E: そう。パンクのフライヤーに描かれてあったレイ・ペティボンの骸骨のドローイングを見て興味を持つようになった。そして子供の頃に通ったスケートショップもきっかけのひとつ。壁に並ぶボードグラフィックを見ながら「これはニール・ブレンダーの作品なんだ。あれはマーク・ゴンザレスか」ってチェックするようになったんだ。アートスタジオの誰かではなくて、スケーターが自分のデッキのグラフィックを描いていたんだ。それに影響されて「いつかプロになることがあれば何があろうとも自分でグラフィックを描こう」と思うようになった。それが一番クールな形だと思ったから。そうやってグラフィックを手掛けるようになった。プロに昇格した'90年にペインティングを始めたんだ。だからスケートとアートのキャリアはまったく同じ。

V: 写真はどのように始めたの? 周りにいたスケートフォトグラファーの影響?

E: まさしく。周りのフォトグラファーから写真について学ぶことが多かった。基本的にスケーターとしてのオレの仕事は雑誌のために滑って撮影することだった。そうして撮影中に彼らの仕事を見ながら、カメラについてもっと知りたいと思うようになった。彼らが「f5で1/500秒」とか言うのを聞きながら「どういう意味だ?」ってずっと思っていたから。そうして少しずつ写真について学んでいった。でも決定的だったのはラリー・クラークやナン・ゴールディンの写真集を見たとき。あれには衝撃を受けた。写真が持つ力に魅了されたんだ。そして自分の周りのみんなを撮ればいいということに気づいた。これはプロに昇格して4年経った'94年の話。スケートカルチャーを4年間も記録していなかった自分を嘆いたね。当時のオレはパーティ好きのクレイジーな仲間と世界中を旅して、不法侵入という罪を犯しながらスケートをしていた。それを記録しない手はないじゃないか。だから'94年からつねにカメラを携帯して周りのすべてを記録するようになったんだ。

V: 撮りたいと思う被写体は?

E: まず撮りたいと思ったのはスケーター。スケートを撮りたかったんだ。それが一番身近なものだから。アンドリュー・レイノルズのような世界中のスケーターが知っている著名人もすぐに撮れる。でもスケーター以外の人に響くドキュメンタリーを作りたかった。アンドリュー・レイノルズを知らない人に、スケーターとはどのようなものか知ってもらいたかった。だからツアー中の生活、ホテルやバンの中の様子、パーティ、セレブ、おっぱいにサインを求めるファン…ツアー中のさまざまなカオス。そういう写真も撮るようになった。そしてすぐにその他のすべてのことを撮るようになったんだ。スケートトリップでパリにいるならスケーターだけじゃなくストリート写真も撮ればいいじゃないか。そうして街中を歩いて撮影しまくった。スケートに始まり世界が次々と広がっていった。オレの周りのすべて。ディアナ(夫人)との関係、ストリートにいる人たち、スケーター…すべてを撮るようになった。

V: スケートコミュニティ以外の人にはどうやって作品が知られるようになったの?

E: よく覚えていないんだ。スケートトリップから戻るとThrasherから「スケート写真以外のオフショットをツアー記事に載せたいから5枚ほど使わせてくれ」って言われるようになった。そうやってスケート以外の写真が人の目に触れるようになったのかな。同時に個展を開いたこともきっかけのひとつかもしれない。'98年にフィラデルフィアのSpace 1026で個展をやったことがあったんだけど、そこで初めてペインティングと一緒に写真も展示したんだ。個展のオファーがあればペインティングだけじゃなく写真も持参して壁一面に飾るようにした。スペースさえあれば1,000枚展示したいくらいだ。そうして作品に夢中になれる空間作りを心がけた。そして写真集も出版するようになったんだ。翌年の'99年にはAlleged Galleryのアーロン・ローズと個展を開いて『Teenage Smoker』をリリース。それで周りはオレをフォトグラファーとカテゴライズするようになった。人は何でも型にはめたがるからね。フォトグラファーであると同時にペインターでありスケーターでもあるのに。

V: そしてそれから20年後、今回のNow & Thenでまたアーロン・ローズと仕事をしている。

E: 素晴らしいことだと思う。アートに関してはアーロンが一番のきっかけを作ってくれたから。Alleged Galleryで初めて個展をしたのが'94年。突然、オファーをくれたんだ。スケート誌か何かでオレのことを知ってくれていたらしい。

V: トーマス・キャンベルを通じてアーロンと繋がったんだよね?

E: そう。アーロンはすでにNYで創作をしているスケーターを集めて個展をしていて、トーマスもそのひとりだった。彼はスケートフォトグラファーだったからよく一緒に撮影していたんだ。ある日、オレのペインティングを見て「NYのアーロンに送ったほうがいい」って言われた。そして数枚のペインティングと一緒に写真も送ったんだ。すると「交通費は出せないけど、もしNYに来れるなら個展をやろう」って返事が来た。そうしてディアナと作品をレンタルしたバンに積んでアメリカ大陸を横断したんだ。これは実に大きな一歩だった。それからアーロンと各地で個展を重ねるようになった。一度個展を開けばそれなりに話題になるからね。当時はSNSなんてなかったから、みんなシーンで何が起きているかアンテナを張っていた。Alleged Galleryは小さかったけど誰もが知っているヒップな場所だった。初めての個展にはラリー・クラークが来たくらい。NYのクールな人が集まるような場所だった。かなり汚くて小さいDIY精神が詰まった空間。

受ける仕事は選ぶようにしているだけ

V: アーティストとして商業的な仕事を受けたことがないって噂があるけど本当?

E: いや、商業的な仕事を受けたことはある。小規模だけどね。受ける仕事は選ぶようにしているだけ。たくさんオファーはあるけど…。

V: Toy Machineがあるから、生活のために商業的な仕事を受ける必要がないって聞いたことがある。

E: それは本当だね。生活のために商業的な仕事を受ける必要はないけど、楽しい内容なら受けるようにしている。たとえばジャスティン・ビーバーの撮影を頼まれたことがあるけどはっきり断った。だってジャスティン・ビーバーに興味はないから。でもレイモンド・ペティボンの撮影はふたつ返事で受ける。興味のある仕事だけを受けて他は断るって感じ。アートで生計を立てる必要がないから。

V: 金銭以外に自分の中で譲れないモラルもあるんでしょ?

E: たしかにモラルの問題で仕事を断ったこともある。Gucciからでかい仕事のオファーがあったんだけど、ある記事によると…Gucciはヘビやワニといった動物の革をシューズに使っていたんだ。だから断ることにした。変な動物の革を使うブランドから金をもらうくらいならオファーを断るほうがいい。

ディアナ・テンプルトン: 変な動物じゃなくて珍しい動物でしょ。

E: そうそう、珍しい動物。

V: 最近はどのようにスケートと向き合っているの?

E: 何も変わっていない。ただ昔よりスケートをする頻度が減っただけ。毎朝目を覚ますと同時に「スケートがしたい!」と思うような時代もあったけど、今は歳もとってToy Machineの運営もある。アートのキャリアも軌道に乗っている。Toy Machineを立ち上げた頃はプロスケーターとブランドオーナーを両立させようとがんばっていた。スケートやアートに専念していたから、うまくToy Machineを運営できていなかったんだ。でも今はいい感じに運営できていると思う。オレがスケートしていないほうがToy Machineうまく行くってことかな。アートのキャリアにとってもいいことだと思うし。スケートが昔のようにできない分、創作や個展に時間を割くことができるから。

V: 大ケガもあったもんね…。

E: そうだね…。40歳まで精一杯がんばったんだけど脚を折ってしまったんだ。それですべてが変わった。40歳で骨折するとかなり長引くから。まだ大きなプレートが脚に2枚入っているし。

V: まだ入ってるの?

E: さらに21本のネジ。脚の中の骨が2本とも折れたから。折れたときは脚がスネの半分から完全に横に曲がって骨が飛び出ていた。骨が肌を突き抜けていたんだ。

V: 骨が貫通してたの!?

E: そう完全に外に出ていた。最悪のケガだったから二度とスケートができないと思った。でも目標はケガを治してまたスケートをすることだった。でも医者が言うには、プロレベルまで戻すにはプレートを外す手術が必要とのこと。骨には柔軟性が必要。でもプレートが入っているから柔軟性ゼロ。だから今のまま激しく着地すると、プレートの上からまた骨が真っ二つに折れてしまう。触ってみるとわかる。ここにプレートが入っているだろ?

V: 本当だ。ヤバいね。

E: だから変な形で着地するとまた骨折してしまう。今もプレートが骨を支えているわけだから、手術はやめてそのままにしておくことにしたんだ。ステアを飛ぶのはやめて、軽くスケートをすることを選んだってわけ。

V: でもノーズブラントスライドは健在だね。

E: そうだね、まだスケートはできるから。小さなバンクとか楽しみながら滑っている。若い世代についていこうとは思わないけどね。ステアは若者に任せればいい。オレは低いカーブで十分。

V: でももう十分なキャリアがあるから今さら自分のスキルを証明する必要もないしね。

E: 後悔なし。スケートを通して素晴らしい時間を過ごすことができたし、今でも歩けるどころかスケートもできるのがラッキーなくらい。

V: ではこれまでのキャリアで一番印象的だった出来事は?

E: 忘れられないことはたくさんある。考えてみろよ。これまでいろんなブランドに所属してきたんだから。マスカやジェイミー・トーマス、ブライアン・アンダーソンやブラッド・ステイバ、バム・マージェラ…。最高の思い出やクレイジーな事件が満載。オレは普通の人間がするようなことをしてきただけなんだ。スケートにアート。イチかバチかやってきただけ。そして2年前にSkateboarding Hall of Fame(スケートの殿堂)の仲間入りを果たすことができた。あれはクレイジーだった。オレにとって間違いなく印象的な瞬間だった。だってオレが殿堂入りにふさわしいなんて思ったこともなかったから。オレより前に殿堂入りするべきスケーターはたくさんいるはずなのに…。

V: 謙虚だね。

E: 殿堂入りが発表されたときはどうしていいかわからなかった。オレのことを考えてくれている人がいるってこと自体驚きだった。特別なことをしてきた覚えがないんだから。最高のスケーターでもなかったし、どの分野でも最高だと思ったことはない。ただオレはやりたいことをやってきただけ。言葉にするのは難しいけど…本当に光栄だった。最後にこんな素晴らしい経験をすることができてうれしい。
 







 

V: みんなリスペクトしてるよ。では最後に今後の予定を。

E: 10月にToy Machineのフルレングスをリリースする予定。かなり久しぶりの新作。だってライダーがそれぞれスポンサーを抱えているから大変なんだ。昔とは環境が違うからね。みんなシューズスポンサーの撮影で忙しいし、ひとつのプロジェクトに専念させるのは難しい。でもようやく形になるから楽しみだね。あとは作品集や個展のプロジェクトがたくさん控えている。これまでと何も変わらない。「最近何してるの?」ってよく聞かれるけど、毎回「ずっと同じ」って答えている。Toy Machine、個展、写真。ずっと何も変わらない。
 

Ed Templeton
@ed.templeton

1972年生まれ、カリフォルニア州ハンティントンビーチ出身。'90年にスケートとアートのキャリアをスタート。ストリートスケートを進化させた重要人物のひとり。現在はToy Machineを運営しながらアーティストとしても活動中。

 

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