ふたりのフュージョンによって歴史的瞬間の数々が生まれた。ジョシュ・ケイリスとマイク・ブレイバックの30年におよぶ友情の証。
──KALIS & BLABAC
[ JAPANESE / ENGLISH ]
Photos courtesy of Mike Blabac, Special thanks: DC Japan
VHSMAG(以下V): ふたりが撮影を始めて今年で30年になりますが、初めて会ったのは?
マイク・ブレイバック(以下B): ふたりともミシガン出身で1時間ほど離れた場所に住んでいたんだ。'80年代終わりのスケートシーンは得てして小さなものだった。特に小さな街ではね。そんな地元のシーンで出会った感じ。
ジョシュ・ケイリス(以下K): そうだね。でもどこで出会ったかは記憶が曖昧。
B: グランド・ラピッズのレッジのスポットだったと思う。みんなが集まっていたあのプラザ。
K: ああ、あの競技場だ。
B: そう。あのプラザで初めて会って、何のためか忘れたけどジョシュから写真を撮ってくれと頼まれたんだ。子供の頃から写真を撮っていたから。スケートフォトグラファーになろうとは思っていなかったけど。当時のオレにとって、スケートと写真は別のものだった。スケートの写真を撮るようになったのは友達にレンズを向けるようになってから。
V: ふたりの初めての撮影はどんな感じだったの?
K: 唯一覚えているのは、親に怒られて外出禁止だったってこと。でもこいつが来たおかげで外に出て撮影していいことになったんだ。普段の親父は絶対に許してくれないのに。
B: それはオレがTransworldで働いているって親父さんにウソをついたからだろ?
K: 当時はウソが上手かったんだ。
V: 何を撮ったか覚えている?
B: もちろん。カーブでのノーズブラントスライド。実は先日そのスポットを見に行ったばかり。
K: そう、30年前に初めてふたりで撮ったスポット。今の家からあまり遠くない場所だから。まだあったよ。当時はかなり寒かったのを覚えている。
V: その後にふたりともSFに移ったんだよね?
B: そう。ふたりで初めて撮影したのが'89年。それから一緒に滑ったりしていたんだけど、'94年にSFに移ったんだ。
V: そこでマイクはスケートを本格的に撮り出したんだよね?
B: 最初は友達を撮っていただけだったけどね。当時はGAPで働いていて、「写真のほうがシャツを畳むより簡単だ」って感じだった。写真ではなくスケートをしにSFに移ったんだけど。でもそうだね、生計を立てるためにスケートの写真を撮り始めたのはSF。
K: オレも'94年にSFに移ったんだ。でもずっと連絡を取り合っていたわけではなかった。「オレのこと覚えているか?」っていうくらいの関係。
B: GAPでの仕事を終えて外に出たらジョシュがピザを食べながら地べたに座っていたんだ。「おい、久しぶりじゃないか!」ってビックリした。同じ時期にSFに移ったけど、インスタグラムで互いの動向を把握できるような時代じゃなかったから。偶然の再開だった。
K: 初めて撮影してから5年後のことだった。この5年の間にダラス、フィラデルフィア、サンディエゴとか転々としていてちょうどSFにいたんだ。友達の家で寝泊まりして地べたでピザを食いながらいろんな場所に住んでいた。
V: ではDCに加入したのは? それまでいろんなシューズブランドのフロウだったって聞いたことがあるけど。
K: そう。Duffs、Dukes、etnies、Vans、そしてadidas。'94年だったかな、ロブ・デューデックやケン・ブロックとか、当時ハングアウトしていた連中がDCを始めたんだ。ケンは車のトランクからシューズを手売りしていた。オレはそれから3年間くらいフロウライダーだった。そうして正式にチームに迎え入れられた感じ。ブレイバックがどうやってDCに来たのかは覚えていないな。
B: オレの場合はジョシュやマイク・キャロルとかDCのライダーを撮る機会が多かったから。SFからLAに移ったのをきっかけにGirlで働くようになったんだ。ちょうどチコ・ブレネス、スコット・ジョンストン、アーロン・メザ、キャロルたちがLAに移ったのと同時期。キース・ハフナゲルもDCのライダーだった時代。Girlで働くようになって1年ほどしてケンから連絡があったんだ。「DCに来ないか?」って。昔からDCのアドやシューズが好きだったから、そのチャンスに飛びついたんだ。
V: ケイリス、ブレイバック、DC。どうしてもLOVE PARKを連想してしまうね。
K: LOVEに行くようになったのは、母親がNYからフィリーの郊外に引っ越したからだった。まだフィラデルフィアに住む前の話。初めてLOVEに行った頃はロジャー・ブラウンっていうスケーターひとりしか滑っていなかった。滑っていたのもファウンテンの周りの3段ステアだけ。それでフィリーに戻ってくる度にLOVEに行くようになるんだけど、スケーターも少しずつ増えていった。そうして母親とフィリーに住むようになってLOVEに通うようになった。だから初めて行ったのは'92年か’93年かな。
V: ということはリッキー・オヨラの時代よりも先にLOVEで滑っていたってこと?
K: もちろん。LOVEがスケートスポットと見なされる前の話。フィリーに住むようになってからLOVEがオヨラの聖地みたいになったんだ。Sub Zeroとかの時代。それでまたフィリーを離れることになったんだけど、また戻ってきたときにはもうオヨラたちがいなくなっていた。それからがオレたちの時代。'97年頃だったと思う。
B: そうだね。'99年にオレがLOVEに行き出したから。
K: '99年頃から本格的にLOVEでのスケーティングを広め始めた。スティービー(・ウィリアムス)もDCと契約をして、'00年代初めに(ブライアン・)ウェニングや(アンソニー・)パッパラードが出てきた。ブレイバックがLOVEまで来てオレたちのスケーティングを記録してくれて、それを発信できるDCというプラットフォームがあったのも本当に幸運だったと思う。
B: DCで働き出した頃、ケン・ブロックからこう言われたんだ。「ジョシュのシグネチャーモデルが出るからフィリーでの時間が増える」って。あの頃は楽しかった。ジョシュのソファで寝て、毎日LOVEに行くんだ。そしてそこで繰り広げられるすべてを記録する。
V: そうやって数々のアイコン的な写真が生まれたわけだ。
B: 当時はそんな思いでやっていたわけじゃなかったけどね。『The DC Video』の撮影が始まってヤツらがツアーに行き始めるまでの'99年から'01年、夏のほとんどをLOVEで過ごしていた。
V: バンプからのゴミ箱オーバーのトレフリップが個人的に一番印象的だった。
K: 実はあれは2回やっているんだ。最初にメイクしたときにその噂をブレイバックが聞きつけて、「もう1回やれ」って言うんだ。「なんでだよ?」って聞いたら「今から行く」って。それでもう1回やるはめになったんだ。
B: そう。実は最初に撮った写真を見ると、アングルが前からで照明もイマイチだった。しかもポラロイドか何かだったから撮り直すしかなかった。それでその日のうちに航空券を予約したんだ。
K: こいつはいつもこんな感じなんだよ。
B: そうしてフィリーに飛んで、あのシークエンスを撮ったんだ。近所のドラッグストアですぐに現像して確認できるようにカラーのネガを使ってね。一発ではなく、シークエンスで撮っていて良かったと思う。デッキをキャッチするフレームが今まで撮ったトレフリップの中で一番良かったから。
V: ということで、ふたりの写真で個人的に印象的なのはあのトレフリップ。ふたりにとっては?
K: どうだろう。LOVEでのノーズブラントスライドかな。
B: オレもそうだね。
K: しかもちょうどLOVEが閉鎖の危機に晒されていた時期だったから。
B そうだね。フェンスが立ち始めて、レッジの前にオレンジのベンチが置かれた頃だった。
K: だからLOVEでの最後の写真になるかもしれないということで強烈なものにしたかった。
B: そう。とにかく閉鎖寸前だったからLOVEに行くことにしたんだ。ジョシュがあの写真のアイデアを思いついて、LOVEの看板やその他のすべてがフレームに入るように撮影した。
V: 今はLOVEのようなプラザが少なくなったような気がするけど。
K: プラザが少なくなってわかると思うけど、今のスケーターには何かが欠けていると感じられてならない。いいか悪いかは別にして、昔は暗黙のルールが存在していた。プラザという環境ではまずローカルのリスペクトを得なければならなかった。じゃないと笑われたり痛い目に遭ったりする。プラザとは都市環境のスケートコミュニティだから。でもまだプラザは世界中にある。ただそのプラザをブランドとして世に広めるフォトグラファーやプラットフォームがないだけ。プラハ、バルセロナ、パリ。プラザのスケートコミュニティはまだ存在している。
V: ではふたりの撮影のプロセスは30年の間に変化した?
K: 昔と比べて計画的になったかな。今は互いにアイデアを出し合ってそれを形にする感じ。昔はもっと突発的だった。
B: 夏にLOVEで撮影していた頃は突発的にいいものを残せたけどね。今はお互い年齢を重ねていろいろあるから計画性が重要になってくる。でも撮影とスケートそのものは本質的に何も変わっていない。楽しい感覚は子供の頃と同じ。
V: スケートと写真、その美的センスについて思うことは?
K: 美的センスは何よりも大切。ブレイバックが撮る写真はすべて美的センスにこだわっているから。ツアー中にランダムに撮るものは例外だけどね。背景には確実にこだわっている。
B: ふたりとも同じタイプのスケートを見ながら育ったから。写真に関しては、フレームの中にいろんな要素を入れてストーリーを伝えるようにしている。あのトレフリップの写真にしても、背景にキッズがレッジに腰を下ろして固唾を飲んで見ているだろう? そういったディテールを大切にしている。
V: 今の時代はSNSで誰もが情報を発信できるようになったけど、そのようなディテールが失われていると感じることは?
B: 情報が次々と流れていく時代だから、こだわりが必要になってくる。たとえばKalis Sのプロモーションで撮ったノーズブラントも、地元シカゴで撮ったというストーリーがちゃんとある。今回リリースした写真集にも30年の友情というしっかりとしたコンセプトがある。だからインスタグラムの写真や動画のように簡単に忘れられないものになるんだと思う。
V: ふたりとも20年以上もDCに所属し続けているけど、その理由は?
K: DCがなくなってしまえばオレとブレイバックが築いてきた歴史やレガシーが失われてしまう。どこか他のブランドに移籍したらこれまでの功績を広めることなんてできない。すべてを白紙に戻して新しいプロジェクトに取り組むのも楽しいかもしれないけど、オレはキャリアの背景にあるストーリーが好きなんだ。たとえばマイケル・ジョーダンのストーリー。あのような素晴らしいストーリーをオレも伝えたいんだ。
B: 子供の頃はスケート誌を切り抜いて壁に貼っていた。それをじっくり見て研究していたんだ。スケート写真はいろんなスケーターにとって意味のあるものだと思う。DCがあるからこそ、ジョシュたちと意味のある写真を残すことができている。そうやって、みんながじっくりと見たいと思える写真を撮ることができているんだ。いろんなスケーターをインスパイアできる作品を残せているのは、DCのおかげと言っても過言ではない。
V: では今回、リリースされたKalis Sについて。
K: Kalis Sはオレの初シグネチャーモデルの現代版。しっかりと足にフィットしてシューレースを縛る必要もないからルックスもドープ。そして、Kalis Sのストーリーを伝えるためにオレの1stシグネチャーもKalis OGとして復刻させた。やはりストーリーがすべてなんだよ。
V: そして、ふたりの30年を振り返る写真集もリリースされたよね。
B: 30年も一緒に撮影し続けてきた。せっかくだから写真集を作ろうとジョシュが言い出したんだ。30年を100ページに収めるのは大変だったけどね。まずふたりで初めて撮影したノーズブラント、そしてSFで偶然再開して撮った写真から始まり、LOVEのトレフリップのフィルム、当時の写真、そしてその後のDCでの20年と続いていく。
K: 30年も一緒に撮影し続けたスケーターとフォトグラファーは珍しいよね。
B: トニー・ホークとグラント・ブリテンはいるけど、ずっと撮り続けたわけじゃなかったから。こんなに長く友情が続いて、しかも今も一緒に撮影できているなんて本当に珍しいと思う。そして、ふたりとも変わらず写真やスケートという形でキャリアを続けられているなんて最高じゃないか。
K: まあ、ふたりとも西と東で離れて住んでいるから上手くいったのかもしれないね。毎日顔を合わせなくてすむから(笑)。
V: では最後に、30年を振り返って一番の思い出は?
B: LOVEで過ごした時間かな。あのトレフリップのシークエンスを撮った20年後にこうして東京であの瞬間について話す日が来るなんて思ってもいなかったから。ジョシュとスティービーのソファで寝て毎日撮影したこと。チーズステーキを食いながらLOVEでハングアウトしたこと。警察から逃げたりするヤツらの日常を記録できたこと。カメラオタクとしてすべてを記録できたことは幸運としか言えない。
K: そうだな。オレにとっては、外出禁止の日にこいつが現れたことかな。「やっと外に出られる。スケートができる」って感じだったから。これはマジな話。それがオレの一番の思い出だ。
ジョシュ・ケイリス
@joshkalis
切れ味鋭いフリップトリックとスタイリッシュなスケーティングでLOVE Parkの新時代を築いた立役者。現在もDCの顔役としてシグネチャーモデルをリリースし続けている。代表作はAWSやDCの作品群など。
マイク・ブレイバック
@blabacphoto
1994年にSFでスケートフォトグラファーのキャリアを開始。Mad CircleやGirl勢との撮影を経てDCの専属に。'90年代終わりからLOVE Parkの黄金時代を記録したことでも知られている。