今年でブランド設立10周年を迎えたMAGENTA。パリを拠点に世界的注目を集めるに至った道のりから自身の闘病まで。ブランド共同設立者でありアーティスト、ソイ・パンデイによる等身大の言葉。
──SOY PANDAY
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Photo_Clement Harpillard
Special thanks_Kukunochi
VHSMAG(以下V): Magentaのブランド設立10周年おめでとう。お祝いに何か特別なことはした?
ソイ・パンデイ(以下S): いや、まだだね。6月にパリでアートショーを予定していたんだけど、ロックダウンの影響ですべてが変わってしまって。でもエッフェル塔がスケートをしているドローイングを中心とした10周年カプセルコレクションを作ったね。また親友のシルヴァイン・ロビノーと一緒に、オレがエッフェル塔のふもとでエッフェル塔のミニチュアを販売している売り子役を演じたショートムービーも作った。楽しんで仕事を続けることがオレたち流の祝い方(笑)。あとはマノロがMagentaの10年分のフッテージをまとめたリミックスを作ってくれた。この10年間でかなりの映像をリリースしてきたから。マノロいわく、スケートのフッテージだけで合計5時間以上あったみたい(笑)。
V: 10年を振り返って、今はどんな気持ち?
S: なんだろう。10年も経ったように感じないかな。まだ5年くらいのような感じがする。自分たちが達成したことを誇りに思っている。最初は何をしているのかよくわかっていなかったけど、なんとかこの世界に存在し、スケートコミュニティに影響を与えることができたんだから。やりながら学んできたからね。10年の間にバカみたいな間違いもたくさんしてきたし。でもそれはどんなブランドも同じ。間違ってもいい。とにかくこれまでの活動を誇りに思っている。スケーターによるスケーターのためのブランドとして、オレたちだけでやってきたんだから。それは誇りに思ってもいいと思う。
V: スケートはこれまで以上に国際的になったけど、アメリカ以外のブランドで世界的に注目されているのはほんの一握りだけだよね。そのなかでもMagentaそのトップに位置している。世界的に知られるようになった理由は何だと思う?
S: 正直なところ、よくわからない。まあ、パリやフランスはもともと有名だし、みんなここで何が起きているか知りたくなったのかな? でも、オレたちはスキルだけを重視しない数少ないブランドのひとつだと思うんだ。危険なスタントというよりは、スタイルやスポットを重視している。エリート主義者じゃないから共感してもらえるのかも。もしかしたらオレたちの情熱に共感してくれているのかもしれない。もしかしたら金儲けよりスケートを愛していること、そしてスケートカルチャーに恩返しをするために最善を尽くしているところを見てくれているのかもしれない。個人的な話だけど、ボードシリーズのグラフィックを描くときは、毎回新しいもの、今までに見たことのないものを作るようにしているんだ。どのシリーズも心を込めて描いている。おそらくみんなそれを見てくれているんだと思う。まあ、わからないけどね。
V: これまでにブランドとして苦労したことや大変だったことは?
S: 苦労はつきものだよ。傍から見るとすべてスムースに見えるけど、実はブランドを運営しているとずっと問題続き(笑)。最初の頃はデッキや洋服など、すべてをアメリカで生産していた。ブランドがどんどん成長して、ビジネスを拡大するために2014年にそれまでで一番大きい注文をしたんだ。支払い期限は3ヵ月。でもその間に米ドルが超高値になって、為替レートの変動だけで大損。倒産しそうになって…。ブランドを存続させるために借金をしなければならなかった。ちょうどその頃はヴィヴィアン(・フェイル)に第2子が生まれるタイミングだったからヤツのストレスもハンパなくて。さらにはオレが癌と診断されて3ヵ月間の化学療法。御存知の通り、ブランドもオレも生き延びたけどね。その後にヨーロッパで生産を開始し、Polarなどの洋服を生産していた工場と一緒に組むようになった。でも数年後にオーナーが工場を倒産させて、金を持って消えてしまった。オレたちは大金を振り込んだばかりで、コレクションを受け取ることになっていたんだけど…その男は忽然と姿を消して電話にも出ない。ショップは商品を待っているのにオレたちには何もない。コレクションも金も時間もない。Magentaはほぼ終了って感じだった。借金は完済することができたけど、生き延びるための解決策を早く見つけて、別の工場で急いでコレクションを生産しなければならなかった。これがオレたちの2大事件。他にもいろいろあったけど。誰も知らないと思うけど、ヴィヴィアンのおかげですべてを切り抜けることができたんだ。本当に素晴らしい男だよ。
V: 「Magentaが世界的に認知されてきた」と感じた瞬間は?
S: それはMagentaを始めて数ヵ月後かな。『Static 3』が出た2007年に来日した際にKukunochiのウルと会ったんだけど、その頃は彼が取り扱っていたLandscapeのライダーだったんだ。パリの小さなブランドとしてMagentaを立ち上げたのが2010年。初期のデッキは自分たちや仲間のアパートで保管していた。超ゲットーだよね。当時のフランスのショップはHabitat、Alien Workshop、Flip、Girlのようなアメリカの大手ブランドしか扱っていなかった。応援してくれるショップもあれば「いや、もうフランスのブランドはいくつか取り扱っているから...」と断るショップもあった。自分たちのデッキが全部売れるかどうかわからない状態。自分たちのスケートスタイルがあまりにも周りと違っていたから、ブランドは長くても1年か2年しか持たないと思うこともあった。当時のスケートはバンガーかテクの二極化だったから。オレたちは、でかいレールに入るわけでもないしテクでもない。奇妙な中間の存在だった。街中で車の間をクルージングしているだけ。もちろん『Static 3』にオレのパートがあったことはプラスに働いたけど、あのビデオはフランスでかなりアンダーグラウンドな存在だった。そんななか、仲間に協力してもらってパリで『Static 3』の試写会を企画したんだ。するとアメリカのジョシュ・スチュワートからTheories用にデッキをオーダーしたいって連絡が来た。当時はまだ代理店じゃなくてビデオを売ったり、陰謀論を議論したりする小さなウェブストアだった。ちょうどヴィヴィアンも『Static 4』でパートを撮っていたからジョシュと組むのは理にかなっていると思ったんだ。それにアメリカでデッキを売れることも刺激的だった。それと同時に日本のウルからも代理店のオファーが舞い込んできた。世界の反対側の日本でMagentaが販売されるなんて、オレたちにとってはクレイジーなことだったんだ。ウルからのメールで「ヤバい。みんなオレたちのブランドを注目しているぞ!」と思うようになったんだと思う。それから海外のショップからも注文が来るようになった。さらには他の国からも代理店のオファーが届くようになっていろんな人がパリに遊びに来てくれるようになった。自分たちのブランドを立ち上げようとするスケーターたちにも影響を与えることができた。ある意味、当時のスケートコミュニティは大企業に支配されていて味気ない感じがしていた。そこでひとつの新しい扉を開いたのがオレたちだったんだと思う。その反響の良さに驚いたよ。今まで支えてくれた人、今の自分たちを支えてくれている人たちには本当に感謝している。マジでありがとう。
V: Magentaにこれまで起きたことで最大の出来事は?
S: 難しい質問だね。どうかな。マーク・ゴンザレスがMagentaを気に入ってくれて、グラフィックを提供してくれると言ってくれたこと。これはスケートコミュニティのゴッドファーザーから祝福を受けたようなものだよね。他にはリッキー・オヨラ、ケニー・リード、クイム・カルドナ、ブライアン・ロッティ、マット・フィールド、マイク・デーハー、ドレイク・ジョーンズ、オーシャン・ハウエルなど、オレたちが尊敬するスケーターのゲストボードをリリースしたこと。オレにとって、彼らは黄金期である'90年代半ばのレジェンド。そんな素晴らしいスケーターにMagentaがクールなブランドとして認められたことはかなり意味があることだから。
V: アメリカではなくフランスを拠点にするメリットは? アメリカに住めるとしてもフランスに留まると思う?
S: フランスに住むメリットはもちろんあるよ。でも何よりもオレはフランスが大好きだし、アメリカに住みたいとは思わない。たまにアメリカに行くのは好きだし楽しいけど、ずっとここフランスに住んでいたい。Magentaはフランスのブランドだからここが拠点であるべき。
V: これまでMagentaで行ったビデオプロジェクトの中で最も印象に残っているものは?
S: 個人的には日本のフッテージが多い『Soleil Levant』が一番のフルレングスだと思っている。これはスケートビデオというよりも芸術作品と言っていい。オレたちのメンタリティと日本のメンタリティの類似性を表現したセクションがあるし、すべてのセクションにメッセージが込められている。アートについて、クラフトマンシップについて、オレたちが好きなタイプのスケートについて。TBPRとFESNの森田貴宏が編集をしてくれたんだけど、これがマジでヤバかった。他のフルレングスとはまったく違っていた。東京とNYで開催した試写会も本当に素晴らしかった。オレはこれまでNYのビデオをたくさん観て影響されてきたんだけど、そのNYの大きな映画館で試写会をすることができたんだ。NYのスケーターが集まって大騒ぎしている光景は最高だった。いい思い出だね。
V: 一時期は日本人スケーターのゲストボードもリリースしていたよね。日本人スケーターのどこに惹かれたの?
S: 日本のスケートに興味を持つようになったのは日本を訪れた2007年。それまで日本のスケーターについては、411VMに出演していた一部のスケーターを除いては何も知らなかった。日本に行ってみて、自分の好きなスタイルのスケートがそこにあることに気づいたんだ。オレの好きなタイプのスケートがフランスなんかよりも認められていた。iPathは日本で人気だったし、TrafficやStaticもそう。フランスでこれらのブランドはかなりのアンダーグラウンドだったんだ。それと同時に、レオ(・ヴァルス)とヨアン(・タイランジー)も日本のビデオに興味を持ち始めて、実際に日本を旅して自分たちのコネクションを築いていった。とにかくいい感じで日本とのコネクションができて友情も芽生えていった。そして独自のスタイルを確立している日本のスケーターの認知度が世界的に低いことにいつも驚いていた。それにFESNの作品の撮影スタイルや編集に圧倒され、好きなものに感謝とリスペクトを捧げたいという思いで森田のゲストボードを作ったんだ。それがきっかけで森田が『Soleil Levant』に参加することになった。さらには『LENZ』のセクションを撮影するためにTBPRもフランスに来てくれて、仲良くなって、それがきっかけで(上原)耕一郎がチームに加入することになった。日本では荒木 塁とも仲良くなった。ずっと前から彼のスタイルのファンだったんだ。徐々に親交が深まって塁のゲストボードもリリースした。今でも塁にはデッキを送っているし。塁、元気か? ゲストボードに関して言えば、スケートコミュニティに何かをもたらしたスケーターを記憶するという意味でコレクションを作っている。殿堂入りのような感じだね。オレが日本のスケーターに惹かれたのは…まあ日本に限らずだけど、独自のスタイルを確立しているところなんだ。すべてをやろうとするんじゃなく、何かひとつだけ上手になろうとするところが好きなんだ。これはスケーター全般に言えること。ボビー・プレオが最たる例。日本の文化のせいか、日本のスケーターは他の国よりもそれを理解しているように思う。だからこそ、日本のスケートが面白いと思えるんだ。
V: Magentaのチームは国際色が豊かだよね。意識的にいろんな国のスケーターを入れたの?
S: そういうわけじゃないね。たくさん旅をして、たくさんの人に会って、いろんなところでたくさんの仲間を作ってきたんだ。前にも言ったようにオレたちのスケートスタイルはアンダーグラウンドだったから、旅を重ねる度に同じ志を持った人と自然と繋がることができたんだ。ときにはアメリカ、ときには日本、ときにはオーストラリア、イギリス、イタリア…。すべては偶然の産物。ジミー・ラノンやベン・ゴアと知り合ったのも『Static』の撮影で訪れたマイアミ。計画的に国際色豊かなチームになったわけじゃない。もともとすべてにおいてあまり計画を立てたことがないし(笑)。
V: スケートを通じて世界中の人と繋がっていったわけだよね。印象に残っている出会いは?
S: これまでにマーク・ゴンザレス、ケニー・リード、リッキー・オヨラ、ボビー・プレオなど、リスペクトするスケーターとの出会いがたくさんあった。リスペクトするスケーターはほとんど会えたと思う。ケニーと一緒に旅をしたりボビーとNYでスケートをしたりしたのは思い出深い。動物園では見ることのできない珍しい動物のようなものだからね。彼らのスケートを生で見ることができたのは光栄だった。フランスから来たガキがどうにかして彼らに近づき、一緒にスケートをして…自分のアパートに迎え入れて仲間になることができた。たとえばフィリーでのリッキー・オヨラとの初めての出会い。ジャック・サバックとリッチ・アドラーと一緒にフィリーに行ったんだけど、ふたりはリッキーと次のTrafficのビデオについてのミーティングがあったんだ。ボビーも来るはずだったんだけど、土壇場でキャンセル。オレはTrafficのライダーじゃないのに、リッキーが「ボビーが来ないから、このミーティング中はオマエがボビーの役をしろ」って言うんだ。そしてオレがボビーであるかのように「オマエ、なんでミーティングに来ねぇんだよ! 来れないなら来れないって事前に連絡しろよ」って怒鳴り始めて…(笑)。あと26歳の頃にサンフランシスコで初めて酒を飲んだときのこと。オーシャン・ハウエルがオレを隣に座らせて「酒が飲めないなんて知らない。とりあえずここに座ってオレと一緒にバーボンを飲めよ」って。ニュージャージーではクイム・カルドナの車に乗ったことがあるんだけど、突然5分間のフリースタイルをカメラに向かってぶちかましたんだ。その映像はなくしてしまったけど…。正直、思い出深い瞬間が多すぎてキリがないね(笑)。
V: そういう出会いもスケートの醍醐味だよね。ちなみに今年初めに座間翔吾がチームに加入したばかりだよね。
S: 翔吾とは共通のアパレルスポンサーであるRemillaを通じて知り合ったんだ。実は彼とはずっと前にジャパンツアーで会ったことがあったんだけど、まだ小さい子供だった。だからオレも記憶が曖昧なんだ。とにかく彼のインスタグラムを見るようになって、スタイル、フロウ、ストリートでのライン、フラットトリックのセンス…すべてがいい感じだった。それが翔吾のスケートの一番好きなところ。それに自然体だよね。それでウルと再会したときにMagentaに合うという話になったんだ。翔吾もMagentaを気に入ってくれていたから自然の流れで加入した感じだね。
V: 彼のウェルカムパートや一緒に過ごした時間のなかで印象に残っていることは?
S: 道路の真ん中で魅せるフロウあふれるフラットトリック。それが最高だね。
V: ではMagentaを運営する上で絶対に譲れないこととは?
S: 誠実さ。
V: ソイはMagentaのアートワークも担当しているけど、そのすべてが独特だよね。誰が見てもMagentaのグラフィックだとわかる。アーティストとして影響を受けてるのは?
S: いろんなものの組み合わせだね。子供の頃に絵を描き始めたんだけど、当時は漫画をたくさん読んで小さなキャラクターを描いていた。自分の想像力で何かを創造し、紙の上でそれに命を与えることができるという考えに魅了されてきたんだ。ずっと絵を描ける人に憧れていた。グスタフ・クリムトの作品に感動し、エッシャーのテクニックと忍耐力に驚き、マグリットのマインドにワクワクした。オレの作品は、これまでの人生で見てきたものをミックスしたもの。芸術作品、漫画、映画、音楽、旅、歴史、哲学、人生...。アートはオレ自身の人生哲学を表現する唯一の方法なんだよ。オレの絵はすべて、陰と陽、夜と昼、現実と夢、正気と病気の狭間の細い曲線で表現されているんだ。オレが手掛けるデッキが意味のあるものであり、いつか美術館に飾られるようなものであってほしいと思っている。Magentaのデッキにはオレの人生哲学が込められている。既存の何かをそのままグラフィックとして拝借するブランドもあるけど…それはそれでいいし、実際に商業的にはその方がスマートなわけだけど…。オレはStereoの世界観のファンだったんだけど、そのすべてがBlue Noteからの借り物だと知ったときはちょっとがっかりしたね。あれは彼らが作り出した世界観だと思っていたからさ。オレのアートワークはどこからも何も拝借していない。少なくともオレが知る限りでは、他の誰の作品にも似ていないと思うんだ。商業的にこれはあまりスマートではないよね。それはわかっているんだ。何かっぽいほうが人は安心するから。言語と同じで新しいものは理解するのが難しいから。でもさっきも言ったように、誠実さだけは譲れない。売れるとわかっているからといって、ミッキーマウスをグラフィックに使うつもりはない。自分の気持ちが入っていないと。スケートに関しては、自分の限られたスキルで、自分にインスピレーションを与えてくれた人たちのリスペクトを集めることができた。自分のアートでも同じことをしたいと思っている。あの世でマグリット、クリムト、ダリ、エッシャー、メビウスに会って「オマエの活動は見守っていたよ。作品いいよね」って言われたいね。
V: スケートに対して独特な視点を持っているよね。スケートやスケーターの在り方で大切にしていることは?
S: スケーターだけじゃなく一般的に忠誠心、リスペクト、誠実さ、ユーモアのセンスを大切にしているね。あとは情熱。スケートではストリートスケートが好きだから、スタイル、ファッション、スケートをしたくなるようなスポットを大切にしている。仲間とハングアウトするには賑やかな街なかのストリートが一番。
V: さっき癌になったって言ってたよね。癌になったことで人生観は変わった?
S: そうだね。癌になったことで、オレはずっと自分自身と戦っていたことを実感することができた。当時は彼女とあまりうまく行っていなくて悲しみでいっぱいだった。罪悪感が自己破壊に繋がっていた。実は幼い頃から、勘違いしていた幼少期の記憶が原因で罪悪感を抱きながら生きてきた。そして当時の彼女もオレに罪悪感を押しつけていた。それがきっかけで無意識のうちに自分を非難するようになって、罪悪感で頭がいっぱいになっていた。そして癌という形で自分自身に死刑宣告を下してしまったんだ。死に向かうように自分の脳が指令を出してしまったんだよ。癌と診断されたときは怖くてしょうがなかったけど、この罪悪感を理解してすっきりするいい機会だと気がついた。彼女との不幸せな環境をより良い環境に変えていかなければならなかった。夢が悪夢になったら、自分でいい夢に戻さなければならない。オレにとって化学療法は考えるだけの時間でしかなかった。化学療法は病の細胞を破壊してくれるけど、細胞に悪さをさせたオレ自身の指令を破壊することはできない。だから自分と折り合いをつけないと、また細胞がおかしくなってしまう。それがオレの考え方だった。医者はすべてを化学療法に頼っていた。でも生きていくためには、自分で考えて、自分を信じるしかないと思った。危険に直面したときに自分を信じることは難しい。しかもそれが社会や医者の考え方と違う場合はなおさらだ。数年前からシャーマニズムやアヤワスカ、ビジョンやスピリチュアルな体験についての本を読むようになった。いつかアヤワスカをやってみれば何か見えてくるものがあるんじゃないかと思うようになった。癌になって自分の人生は思ったほど長くないかもしれないと考え始めたとき、「よし、今こそ試すときだ」と思った。それでペルーへの航空券を買ってシャーマンに会いに行き、アヤワスカの儀式を4回行った。自分を信じて癌に打ち勝つにはそうする必要があると思ったんだ。アヤワスカは信じられないような体験だったし、オレ自身、強くなれたと思う。オレのアートも同じく強くなったと思う。だからオレの場合は癌になってよかったと思う。最終的に人生が好転したんだから。
V: インスタグラムで見たんだけど、レコードカバーのアートワークもしているよね。アーティストとしてMagenta以外にどんな活動をしているの?
S: ほとんどMagentaに時間を費やしているよ。その他だとスケートショップを始めた友人のためにロゴを作ったり、Remillaのグラフィックを作ったり。カナダのLove SkateboardsやTheories、Trafficの村岡洋樹のグラフィックとか、スケートブランドにアートワークを提供することもある。音楽だと友人のMatias Enautのレコードカバーとか、フランスのジャズマンのレコードカバーとか。ジャンズマンのカバーがインスタグラムに載っていたヤツなんだけど、レコードレーベルのオーナーがスケーターなんだ。それでその曲のひとつにスケートを使ったビデオクリップを作りたいと思っていたんだ。2007年に友人のシルヴァイン・ロビノーと一緒に作った“Parisien”を気に入ってくれていたから、また同じようなことをやりたいと連絡があったんだ。トラックがいい感じだと思ったから承諾したんだけど、話し合いのなかでオレがMagentaのアートワークを担当していることに気づいて、EPとLPのカバーをやってくれないかと頼まれた。デッキも作ることになった。クールなプロジェクトだったよ。グラフィックを考えるのも楽しかったし。
V: ではロックダウン中は何をして過ごしていたの?
S: 仕事ばかりだね。兄夫婦と彼らの子供と一緒に実家で過ごしていたんだけど、夜は外出もスケートもしていなかったからひたすら働いていた。でも働くのが好きだから楽しかった。オレが過ごしていた部屋を表現したSummer 2021用のボードシリーズもその間に完成したし。いい感じに仕上がったと思う。ロックダウンにインスパイアされたシリーズなんだ。
V: では今後の活動予定は?
S: オレ個人としては、今と変わらずやっていきたい。ボードグラフィックや洋服のデザインをしたり、スケートをしたり、仲間と遊んだり。シルヴァイン・ロビノーが来年新しいショートムービーを作るんだけど、オレもそれに出演することになっているんだ。それから一緒に長編映画を書こうと思っている。うまくいけば将来的にもっと演技をすることになるかもしれないね。Magentaに関しては、新しいメンバーを何人か迎えて来年はもっとビデオコンテンツを充実させる予定。登場するのはオレが観たいと思うスケーターばかり。そしてオレ自身もパートを撮り続けたい。43歳になった今もそれだけは続けたい。まだまともなクリップが撮れるといいね。
V: では最後に。これからのMagentaに望むことは?
S: 難しい質問だね。長続きしてほしいし、より良い品質のアイテムを作り続けてほしい。時代に流されないブランドであってほしい。最近はどのスケートブランドもハイファッションになりたがっているようだけど、オレはそうなりたくないんだ。コアなスケートブランドであり続けたいと思っている。オレたちはスケーターだから、イケてるスケートをしながらイケてるスケートブランドを作りたい。これからも楽しくボードグラフィックを残していきたい。一番多くボードグラフィックをこの世に残したスケーターアーティストっていうのもいいかもね(笑)。
Soy Panday
@soypanday
1977年生まれ、フランス・パリ出身。Magentaの共同設立者であり、同ブランドのプロスケーターにしてグラフィック全般を担当するアーティスト。シンプルながら流れるスケートスタイルで人気を集めている。